ぼくが橋下教育改革に乗れない理由

先日の当方のエントリーに言及されたlawさんの記事を読んで。


学力別学級もありなのでは?http://d.hatena.ne.jp/law/20080211

 学力別学級は、やり方によっては問題も出てくるかもしれませんが、まずどういう方式にしたら悪影響がすくないか考えてみてもいいのかなと思います。やりようによってはそんなにまずいものでもないのではないでしょうか。


たしかに学力別(習熟度別)のクラス編成が、一概に悪いとは言えないかもしれない。子どもにとってもそうだし、教える側の負担を考えても、やり方をよく考えればこの編成にはそれなりのメリットがあるかもしれない。
ただこの制度の導入を進めようとしている人たちの言い分として、学力という数値的な目標を高めるための手段としてこの制度の必要性が語られることがほとんどだということは確かだろう。
つまり、lawさんが言われるように「学力の高い子」「学力の低い子」それぞれの意欲を満足させるような改良が、この学力別クラスという制度の結果としてもたらされるのなら好いのだが、そもそもこの制度を導入したがっている人たちの思惑は、そういうことにはないだろうと思われるのである。


現在の教育のあり方のなかで、lawさんが書いておられるような苦境に子どもたちがおいやられていて、そこから救い出すには学力別(習熟度別)クラスのような方式の導入によって、授業の効率化を図るべきだというのは、たしかに現場の状況はそうなのだろうが、本筋を言えば教育において追求されているものの中味が間違っていると思う。
その根本的な歪みを見直して変えていくことが必要なのに、今の「学力別クラス」編成導入論は、その悪い根本を維持して、さらに悪化させる方向を向いているものだ。
「効率」を無視できないにしても、効率をあげることのために方式を変えるような改革では、効率のために切り捨てられる部分に光を当てるという副次的な効果が、どのぐらい現実となりうるかは疑問である。


ぼく自身は、教育の現場に立ったこともないので、具体的にどういうクラス編成や授業の進め方が望ましいか、なかなか提示できない。
ただ、「効率」という単一なものを追うことによって歪められている教育の仕組みを、少しずつでも根本から変えていくという方向性は、忘れるべきでないと思うのである。
35人学級の問題などを見ても、どうも橋下知事の改革の方針には、そういう姿勢がないらしいことが、非常に不安である*1


また、われわれは現実には、学校という場所で子どもの時に植えつけられる価値観や、自分への社会からの定義づけのようなものに、今後も相当は縛られ続けざるをえないだろう。つまり、「学力が低い」(もしくは「高い」)ものとして学校で扱われれば、自分にも他人にも、それなりの接し方しか出来なくなり、その状態から抜け出すために多大な労力を必要とするようになってしまう。
だから、「学校での授業を効率的に済ませて、出来た余分な時間で好きなことをする」と言っても、学校のあり方が社会の根本的な歪みを内在させたものであるなら、その悪影響から個々が逃れることは容易でないのである。
橋本知事が提唱するような学校(教育)改革の方向に、ぼくがどうしても乗れないと思うのは、そのようなわけである。

*1:これについては、知事本人が再考すると言ってるようなので、もう少し注視したいが。http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080213/lcl0802132214010-n1.htm