地域エゴイズムの連帯

抵抗の同時代史―軍事化とネオリベラリズムに抗して

抵抗の同時代史―軍事化とネオリベラリズムに抗して


きのうも紹介した本だが、そのなかの『軍事化・抵抗・ナショナリズム』という文章の一節を引用する。

住民運動の基本的な論理は、横浜新貨物線反対運動のスポークスマンであった宮崎省吾が簡潔に述べたように、「地域エゴイズム」に立脚している。とにかく自分の住んでいるところには反対だ、という強烈な論理は、国家が地域の自決権を侵して頭越しに「公共性」を押し付けてくる事態に対して、絶対的な否定の意思の表明となる。宮崎はこうした地域の自治体の自決権をベースとした上での共闘を構想し、これを「地域エゴイズムの連帯」と名付けていた。この論理は、高速道路、鉄道路線、ダム、空港、さらには原子力発電所といった「公共事業」に関しては鋭い批判力を有しているし、基本的には基地問題に関しても有効であるといえる。「ここには作らせない」という宣言をすべての地域が行い、この連帯の上に立って闘うならば、基地を作ることはできないはずだ。
だが、基地を建設する勢力は、一国単位で自己完結した存在ではなく、個々の国民国家の主権をすら制限して決定を実行させるグローバルな覇権に立脚している。このとき、国民国家単位の民主的コントロールにも服さないこの力は、抵抗の弱い環を狙って矛盾を拡大し、目的を果たそうとするだろう。自分のところにさえできなければよい、とばかりに「代替案」を提示することになれば、「連帯」は崩壊する。「ここに作れ」という代替案を提示することなく、「ここに作るな」という「地域エゴ」に徹しつつ連携していくこと、この取り組みは、いまや東アジアのレベルや世界大のレベルで必要となっているし、可能となりつつある。(p42〜43)

「地域エゴイズムの連帯」ということは、あまり考えたことがないので、興味をひかれた。
著者は、現在の社会のネオリベ化、軍事化に対する抵抗の拠点として地域コミュニティーの力というものを(その両義性に注意を促しながらも)高く評価しているので、こうした考え方に当然期待をかけるのだろう。
たしかに、ここには多くの可能性があるとは思う。


だが、反基地運動や、反原発運動のようなことに、この「地域エゴイズムの連帯」という方法が果たして有効か、疑問である。
いったい、基地問題に関して、抵抗の「弱い環」が生じ、そこが狙い打ちにされるというのは、この問題がグローバルな力(覇権)によってもたらされるものだからだろうか?


ぼくは、こう考える。
今の日本で、自分の町に基地や原発等が来ることに反対する人の多くは、その反対と同時に、「でも、日本のどこかには基地や原発が必要だ」とも思っているのではないか。
言い換えれば、多くの人たちの「ここに作るな」というエゴの主張のなかには、すでに「ここに作れ」という代替案が含意されているのではないか。
そう意識していなくても、事実上、そうなっているのではないか。
それならば、地域エゴイズムは、それだけでは「基地をどこにも作らせない」という運動の方向性を帰結しないであろう。


重要なことは、一口に地域といっても、その条件や立場は、決して均等(平等)ではない、ということである。
端的に言えば、基地や原発を受け入れることと引き換えに補助金をもらわなければ財政が苦しいような自治体と、受け入れを拒絶しても十分にやっていける所とがあるだろう。
そうなると、全ての地域が受け入れを拒むことの結果は、明らかである。
つまり、最も立場の弱い地域が、基地や原発を受け入れることになる。あるいは、その地域の人たちだけが、凄惨な死に物狂いの闘いをしなくてはならないことになる。
実際にそうなっている。


ぼくには、この地域間の(国民国家内部の)不平等のようなものを問わない「地域エゴイズムの連帯」が、「どこにも基地を作らせない」という言わば普遍的な考え、行動にまで発展するとは、どうしても思えないのである。
「抵抗の弱い環」を作っている大きな責任は、各地域の「エゴ」にこそあるのであって、そのことに無自覚であるということは、基地の存在に依存する日常の「平和」や「独立」、という枠組みに対しても、実は無自覚(無批判)であるのではないか。
「ここに作るな」を出発点とするだけでは、足りないのだ。