民主主義の織布

札幌のデモの弾圧のときにも感じたが、日本(みたいな社会)のどこが一番「異様」だと思うかというと、単純にデモの人数が少ないというようなことである。


議会制と、デモなどの直接的な意思表示がセットになって「民主主義」が成立してると考えると、日本は後者の要素がほとんど欠けている。
中国では、前者の意味での民主的な制度は進んでないだろうけど、民衆の運動というのは、ときに「暴動」のようなことになっても、活発にあるようである。
韓国の民主制は、ある意味では日本の制度ほど整備されたものでも「安定」したものでもないだろうが、民衆の動きは、それを補って余りあるほどにダイナミックである。


ただ、こういう「制度」と「運動」のバランスで「民主主義」の発展を考えるというのも、あまりにヨーロッパモデルに偏ってるのかもしれない。
『歴史と責任』(青弓社)に収められた幾つかの論考、とくに韓洪九氏の文章などを読むと、単純に線形で発展していくような「民主主義」などどこにもなく、各地の民衆がそれぞれの歴史的な条件のなかで、おのおのに付与された細部を織り上げていくしかない、(この世の全体にとって)単一で不均等な織布のようなものであることが分かる。