橋下氏の発言について

2月1日付け毎日新聞朝刊(大阪本社)、2面より。

橋下氏、府債容認に転換


 大阪府知事選に初当選した橋下徹候補(38)は31日、来年度予算編成で府債発行(借金)を認めない方針を事実上、撤回した。府債の一部は地方交付税が充当されることを知り、30日に一部容認する方向に転換。この日は、「(発行しないという)それまでのコメントは政治的な戦術もある」などと、従来の発言を翻した。
 橋下氏は府債を発行しない公約を掲げて知事選を戦った。報道陣から公約の重みを指摘されると、「あらゆることを知ったうえでしか発言できないのであれば、今までの行政と変わりがない」と反論した。また、当面は7月までの暫定予算とし、その間に全事業を見直したうえで補正予算を組む方針を示した。

よく調べてみたら思ってたのと事情が違ったので、早めに修正したということであろう。
橋下氏の擁護者は、「いわば素人なのだから、事前の勉強が不足していたことを責めても仕方がなく、今後実務の中で実情を学んでいけばよい」という意見のようである。
だがこの記事を読むと、方針を転換(撤回)したことよりも、そもそも公約や政見ということについて、この政治家がどう考えているかということの方が批判されるべきだという事が分かる。


この人は、勉強不足であった意見を政見として選挙運動の中で掲げ、その結果当選したという事実を、なんとも思っていないようである。それは「政治的な戦術」だったのだ、とまで言う。
つまり、選挙における公約や政見というものを、票を獲得し、自分が権力を得て政治的な立場を有利なものにするための「手段」としか考えていないということだ。


だが、民主的な政治の場における公約や政見というものは、言葉を通じて政治家と有権者との間に信頼関係を築き、政治のあり方に血を通わせるためにあるものである。議員や知事、閣僚、首相といった政治家たちは、公約や政見を掲げることによって有権者に「信を問い」、有権者はそれらを目安にして一定の(大きな)政治的権力を、それらの人々に付託することにより、民主的な政治制度というものは成り立っているのだ。
とりわけ橋下氏のような、まだ実績のない候補者の場合、有権者はその人が言葉によって掲げている公約や政見を、投票のための重要な目安とせざるをえない。
「公約」に代表されるような「政治家の言葉」なるものが、その「重み」を問われるのはそのためであって、政治家が自分が公的な場で(とりわけ選挙の場で)約束した言葉に責任を持つかどうかは、民主政治の基礎をなす言葉による信頼関係(有権者と政治家の間の)を保持するか損なうかという大事に関わるのである。


橋下氏が、公約や政見というものを、「政治的な戦術」であると嘯いたり、「勉強不足だったから仕方がない」とか、「あらゆることを知ったうえでしか物が言えないのか」と開き直ったりして済ませるというのは、この政治の基礎をなすべき信頼関係をあたまから否定し、踏みにじることである。
たしかに、勉強不足のことがあったり、実情を知ってみて考えを変えざるをえないということは、誰にも生じるだろう。
だが、自分が有権者の信を問い、権力を付託されるという重大な場において、そうした「勉強不足」の事柄を公約として軽々に用いたという非は、開き直って済ませることなく、真摯に反省するべきだ。


もうひとつ。
橋下氏は選挙中、「政治は言ったことを実行できるかどうかが全て。自分は議会で多数の支持をとりつけている」というのを売り文句にしていたそうである。この言葉は逆に言うと、多数の支持が得られないことだと思った(分かった)ら実行をあきらめる、というふうにもとれる。
今後、政策の実行に反対する力が強い(与党や国の側が反対らしい)と分かった時点で、実行をあきらめる場面が続出するのではないかと懸念される。
政治家が本当に有権者の信頼に応えているかどうかが明らかとなるのは、反対の力がどれほど強大でも、民主的な手続きによってそれを説得し、克服して、公約した政策を実現していこうとする態度を示すか否かによってであろう。
この点でも、これからこの人がどれだけのことを実行し、いい意味で変わっていけるのか、有権者はしっかり見ていく必要がある。