プラトン『国家』メモ・その4

いったい、君もやはり多くの人々の考えと同じように、一部の若者たちがソフィストたちから害毒を受けているとか、ソフィストたちが個人的な教育を通じて害毒を――言うに値するほどの害毒を――与えているとかいうふうに、考えているのかね?むしろ実際には、そういうことを言っている人々自身こそが最大のソフィストなのであって、相手が若者であれ、もっと年取った人々であれ、男であれ女であれ、最も効果的な教育をほどこして、自分たちの思いどおりの人間に仕上げているのではないのかね?(下巻 p38)


このメモは、たぶん今回で最後です。


結局第一巻以後は、トラシュマコスは登場することなく、他にあれほどの強烈な反駁をソクラテスになげつける人物も現われず、おおむねソクラテスの一人語りと、それに対する聞き手の相槌のみという展開に終始する。
それが拍子抜けという感じもあるが、逆に言うと、冒頭のトラシュマコスの弁論は、やはりそれだけのインパクトをソクラテスに与えたのだとも受けとれる。
実際、この本のあの箇所では、書き手のプラトンは、ソクラテスによりも、むしろトラシュマコスの方にこそ自分を住まわせながら筆を走らせているように思えるほどだ。
そして、上記の引用部分を読んでも、プラトン(ソクラテス)が、「最大のソフィスト」とも称されたトラシュマコス的な立場(言論)に対して、必ずしも対立的な位置にあったわけではないことが知られるように思うのである。


ところで、ぼくがプラトンの全著作中でも「主著中の主著」(藤沢令夫の「解説」による)とされる、この『国家』を読んでみようと思ったのは、いずれも最近読んだシモーヌ・ヴェイユと『差異と反復』のジル・ドゥルーズという、20世紀の重要な思想家二人が、プラトンの、とくにこの本にしばしば言及しているからだった。
ここでは、ヴェイユの方を引き合いに出して考えてみる。
ヴェイユが『重力と恩寵』他で書いていることで、『国家』から影響を受けたのではないか、もしくは(少なくとも)プラトン以降引き継がれてきた問題系のなかで考えてるのではないかと思われることは少なからずあるのだが、上に書いたこととの関連で思い出されるのは、次の箇所である。

「ではアデイマントス」とぼくは言った、「われわれは魂についてもこれと同じように、最善の自然的素質に恵まれた魂は、悪い教育を受けると、特別に悪くなると言うべきではないだろうか?それとも君は、大それた悪事や完全な極悪非道というものが、凡庸な自然的素質から生み出されると思うかね?むしろそれは、養育によって損なわれた場合の力強い自然的素質からこそ生み出されるのであって、弱々しい自然的素質は、善・悪いずれにせよ、大したことの原因とはならないだろうとは思わないかね?」(下巻p37)


善とまったく無縁なのはじつは「善くないもの」の弱々しさであり、善と悪とは、「大したこと」をなしうる「力強さ」において表裏のところで結びついてさえいるという、この考え方、いわば「善」を目指すうえでの、「悪」をなしうる「力」へのポジティブな評価は、ドゥルーズを思わせるものでもあるが、同時に意外にもヴェイユの思想の中心部に影を落としているのではないかと思う。
つまりそれは、人が善を目指すということが、どこかで不可避に持ってしまう暴力性、根源的な悪の意識、といったことではないか。このことは、思いつき程度にしか言えないのだが、ヴェイユプラトンを、そういう風に受容したのではないかと、ぼくは思っている。


それはともかく、ここで思い当たるのは、ここでプラトンが「ソクラテス」に語らせている「悪」というのは、具体的には、たとえばソフィスト(トラシュマコス)の言論のことを指してるのではないか、ということである。
それはむしろ、「善」に到達するための条件に肉薄するような「力」を持つ言説として、プラトンには受けとめられていたはずである。
なぜなら、この言論の力は、たしかに現実の方から吹き寄せているものだからだ。


それでは、結局のところ、「ソクラテス」(著者プラトン)は、冒頭のトラシュマコスの議論に、十全に応答したと言えるのだろうか?
ぼくにはそれは分からないのだが、終わりに近い第9巻のなかで、とくにトラシュマコスの名があげられて語られているのは、次のような箇所である。

「では、そのような人もまた、最もすぐれた人間を支配している部分と同様の部分によって支配されるようになるためにこそ、その人はかの最もすぐれた人間、自己のうちに神的な支配者をもっている人間の下僕とならなければならないのだと、われわれは主張するのではないかね?ただしわれわれはけっして、トラシュマコスが被支配者というものについて考えたように、その人が自分の損害のために、下僕となって支配されるべきだと考えるのではない。われわれは逆に、あらゆる人にとって、神的な配慮によって支配されることこそが――それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも――より善い(為になる)と考えるからなのだ。われわれのすべてが、同じものに導かれることによって、できるかぎり相似た親しい友となるためにね」(下巻 p296)


ここではソクラテスは、「神的な配慮によって支配されること」を、隷属からの真の解放としてとらえているわけである。
第一巻でソクラテスが、支配は羊(被支配者)のためにこそなされる、と言った意味は、これだった。
よく知られているように、ソクラテス(著者プラトン)はこの本のなかで「民主制」の国家における多様な「自由」の横溢、善悪の区別なくあらゆる欲望を「平等に尊重しなければならない」とするような価値観の蔓延は、不可避的に人々を僭主(独裁)制における隷属へと追いやってしまうと喝破している。
この「隷属への道」を阻止しうるのは、結局は「善」への服従ということ、つまり「神的な配慮によって支配されること」によってのみだ、というわけである。
この議論自体は、現在の観点から見ても、無論きわめて重要である。


だが、そのためにプラトンが「ソクラテス」の口を借りて述べた「理想国家」のプランは、強烈な優生学的・能力主義的な意図によって育成されたエリート集団による支配によって成り立つ社会像だった。
そこで人々は、「支配される幸福」にたしかにあずかるのだろうが、それはやはり文字通りの「羊としての幸福」なのである。



ぼくは、プラトンがここで語っている国家のイデアは、イデアと呼ぶには、あまりにも現実的な力を有していると思う。
彼の「国家」のイデアの理想主義的性格が批判されるべきなのは、それがたんに実現不可能な夢想に過ぎないからではなく、現実の国家の暴力の原理に容易になりうるものだからだ。
それは例えば、次のような箇所における明確な価値観の呈示を読むとき、実感されることである。

「それでは、われわれは次のように主張すべきではないだろうか?――すなわち、アスクレピオスもまた、(中略)しかし他方、内部のすみずみまで病んでいる身体に関しては、養生によって少しずつ排泄させたり注入したりしながら、惨めな人生をいたずらに長びかせようとは試みなかったし、また、きっと同じように病弱に違いない彼らの子供を生ませなかったのである、と。そしてむしろ、定められた生活の課程に従って生きて行くことのできない者は、当人自身のためにも国のためにも役に立たない者とみなして、治療を施してやる必要はないと考えたのである、と」(上巻 p233)


国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)