中上健次との関連でジジェクをミクロ政治的に読んでみる

スラヴォイ・ジジェク著『否定的なもののもとへの滞留』(田崎英明酒井隆史訳)の読書ノートの続き。
(以下、すごい長いです)


前回書いたように、ラカンが「男性的」と呼んだタイプの論理(カントのいう「力学的二律背反」にかかわる)は、現象(われわれの経験的な世界)の彼方、外側に「例外」(神、彼岸、理想郷)を作り出すことによって、主体と世界との間の矛盾を解決し、この世界を普遍的なものとして成立させようとするものである。ジジェクは、「例外」が普遍性にとって構成的であるということ、つまり普遍への意志は構造上不可避的に「例外」を作り出してしまうものだということを強調する。
一方、ラカンが「女性的」と呼んだ「すべて‐ではない」の論理(カントの「数学的二律背反」にかかわる)は、同じ矛盾に、この世界の普遍性、いわば整合性や同一性による安定を断念することによって対応しようとする。そこでは、この世界が主体にとって統合できない、また同一化しがたいものであるという苦難の現実が、思考の主体自身によって引き受けられるのだ、しかし、おそらく愛とともに。


ここで思い出されるのは、中上健次の作品『千年の愉楽』他に登場する、「路地」の産婆であるオリュウノオバと、その夫で「毛坊主」と呼ばれる「礼如」さんとの対比と関係である。
「路地」が置かれた現実を集約しあるいはあがなうかのように、凝縮された短い生の末に死んでいく「中本の一統」の若者たちの悲劇について、「浄土」や仏の意志のようなものを強調する「礼如」さんにあらがいながら、オリュウノオバが見つめるのは、こちら側の世で繰り広げられる生と死の耐え難さが、そのままひとつの「救済」であるような世界の姿だ。

今から考えるともう人に体をいたわられるような年になっていたがその頃はまだ若く、ここに吹く風はあそこに吹いているのだろうか、あそこで自分の手で取り上げた可愛いい子どもらの声が届くのだろうかと考え、死んだ者がすぐそばに呼べば届くほどの距離に居ると知っているのに、そこにはこんなに明るいか、何もかも光に打たれて光に応じるように隈取り濃く眼にありありと立ち現れているのかとたずね、自分が息をしている事、その息のむこうに何人も死んだ者らがいて見てくれているのをはっきりとたしかめたいとも思った。全てこの世に在るものが各々の音で鳴り出す甘い楽の音を今のように聴こうと思えば出来るのに、その頃はそれをよう知らず楽の音がどんなものかたずねたいとさえ思ったのだった。(中上健次六道の辻」 『千年の愉楽河出文庫p37〜38)


それは、現実の矛盾が(たとえば「路地」に加えられる差別や貧困が)、この世の現実のなかで解決される可能性を排除しない。幸徳秋水に協力したかどで捕らえられた「大石ドクトル」や、戦国時代の根来衆、そして一向宗徒への言及が、それを示唆している。
だが、そうした行動の根にある情動、それは、この世界が主体にとって統合しえないものであるという現実を受容しようとする情熱、つまり「愛」以外のものではない。
中上健次の作品の政治性・宗教性は、この意味で完全に「女性的」なものである。


ところで、本書の第三章「根源的<悪>と関連する事柄」においても、この二種類の思考のタイプに関して突っ込んだ言及がなされている。
まず、

カントによる数学的二律背反の解決は、それゆえ、きわめて大胆なものである。彼は「世界観」(あるいは、より正確には世界直観)の伝統のすべてと手を切るのである。世界(宇宙、コスモス)とは、けっして直観に与えられない何かであり、要するに、厳密な意味で、それは存在しないのである。(ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』p214)


カントの思考は、「女性的」な論理の徹底として、統合された世界観(コスモス)の一切を放棄(断念)するところまでいく。
ここで注目すべきなのは、このような思考のあり方が、どのように「男性的」なものへと転換されるのかという分析である。ジジェクはそれを、「無限判断」と「否定判断」という概念の区別(差異)から説明しようとする。
ここは、ずいぶん難しい用語で語られているが、ジジェクが言おうとしている事柄、そして、ぼくが興味を引かれているものを示すうえで重要な部分なので、丁寧に要約してみよう。


「叡知的なもの」(「モノ自体」)について、有限であるわれわれの思考がとらえることのできない対象であるとカントが言うとき、それについてなんらかの「実定的」な規定を行っているわけではない。ジジェクの言い方にならえば、カントはわれわれの知性の及ぶ領野について限界を引いているだけであって、「彼方」については何の言明も行ってはいないのだ。

<モノ自体>は、われわれの有限性のために永遠に空虚なままに留まるであろうような、一種の場所の姿をとって、純粋な不在としてのみ与えられるのである。(p215)


これが無限判断と呼ばれるものであり、「女性的」論理による世界との関係にかかわる。
ところが一方、否定判断においては、「叡知的なもの」を「感性的直観の対象」であるかのように考える一般的な思考に対して、「叡知的なもの」は「非感性的直観の対象」であると言明される。これは正当なように見えるが、じつは「感性的/非感性的」というふうに「対立」によって語られることによって、「直観」という共通の土台は不問にふされ、いわば「叡知的なもの」は「非感性的」というレッテルが貼り付けられてわれわれの思考によって把握可能なものとされてしまう、とジジェクは述べる。
これが、カントの言う「超越論的仮象」だというわけだ。

カントが「超越論的仮象」と呼ぶものは、究極のところ、無限判断を否定判断として読む(誤読する)というところにこそ存するのである。(p216)


無限判断が、思考には及びえない領域がありうるということを示すことで、世界を簡単に完結したシステムと表象することの偽り(虚構性)をわれわれに教えてくれる力を持つものだとすれば、それが否定判断として誤読されることによって、現実の矛盾は、その矛盾を現実に解決しうる可能性や、それに立ち向かう「力」の発露とともに、われわれの目から隠されてしまうのだ。
「女性的」思考は、「男性的」思考へと無力化、あるいは制度化されるのである。
中上の小説世界にあてはめれば、オリュウノオバが礼如さんに苛立ち、悪態をつく理由がここにある。


続いて第三章のこの部分以降では、「男性的」論理において「彼方」に構想される「幻想」、つまりこの世界の外に置かれる「例外」によって、この世界の矛盾(非統合性)と、そこから生じうるはずの「力」とがいかにわれわれから奪われていくか、そのことが記述されている。
その要点は、先に述べたように、このように構想される「彼方」が、じつはこちら側の世界と同じ土台を持つものだということである。

「<超感性的対象>(超感性的直観の対象)」は、幻影(キメラ)めいた「さかさまの世界に属している。それらの対象は、感性的な直観のまさにその内容が、もうひとつの、非感性的な直観の形式において、転倒されて提示され、投影されたものにほかならない(p217)


一方、カント的(女性的)な主体による思考を貫くならば、次のような事実に突き当たるはずなのだ。

決定的な点は、限界が空間に対して先立つということである。何らかの限界によって分割される二つの領域(現実性と純粋な幻想)があるのではない。現実性とその限界、現実性がそのまわりで構造化される深淵、空虚があるだけなのである。幻想空間は、それゆえ、厳密に二次的なものである。(p224)


このようなものとしての、つまり現実の統合できないあり方を隠蔽し、「社会的現実」という整合的な「世界観」を主体にもたらす(保証する)ものとしての、幻想(空間)の機能が批判されるわけだ。
われわれが通常「現実」と読んでいる社会的現実の像と、「幻想」とは、ここでは不可分のものと考えられているのである。
ここでのジジェクの主張は、「今、ここ」の奪回に賭けられているといえるだろう。
生の現実は「彼方」という「幻想」によって隠蔽されるだけでなく、それをとおして、「社会的現実」という巨大な虚構のなかにわれわれの生が幽閉されるのである。


もう一度中上健次に戻って言えば、もちろん彼の描く「路地」の物語空間は、この生を無力化し幽閉する装置としての機能を果たすものでもある。実際、そこで「中本の一統」の美しく淫蕩な若者たちは、たとえば次のような姿で死んでいくだろう。

夜叉鬼人にも天狗にも出喰わさなかった。半蔵は二十五のその歳でいきなり絶頂で幕が引かれるように、女に手を出してそれを怨んだ男に背後から刺され、炎のように血を吹き出しながら走って路地のとば口まで来て、血のほとんどが出てしまったために体が半分ほど縮み、これが輝くほどの男振りの半蔵かと疑うほど醜く見える姿でまだ小さい子を二人残してこと切れた。九かさなりの九月九日。
 流れ出したのは中本の血だった。(中上健次「半蔵の鳥」結末部 同上p33)


中上が描く「路地」のなかで、若者たちは外部の現実へと接続していくための出口を奪われ、いわば縮小し干からびて息絶えていく。
それは、物語の力であり、中上が有していた母国語の巨大な磁力の効果だったといえるのかもしれない。ここでは小説世界としての「路地」は、物語を読む者にとって、至福を味わわせてくれる「幻想」の領域として機能し、そのことで社会システムの安定に寄与しているのである。
まさに「幻想こそが現実性を支える」というラカンのテーゼの、文学、物語における実例をここに見ることは容易だろう。
だが、オリュウノオバの「路地」を見つめる視点には、この外部から遮断された「路地」という「幻想」空間だけでなく、その「外部」を形成する、より巨大な虚構の空間を射抜き、解体へと導くような、「現実的」な力がこめられているのではないかと、ぼくは思う。
それが、中上の小説の現在的な可能性だと思うわけだが、ここでのジジェクの議論は、まさにこの点に関わっているのだ。


上に述べたような、女性的(カント的)な思考によってとらえられた世界のあり方の隠蔽としての、つまりそれはジジェクの用語だと「現実というトラウマを回避するための」ということになるが、男性的論理への置き換え、誤読、それがジジェク(そしてラカン)の言う、象徴界の形成だと考えられる。
われわれが「社会的現実」と呼んでいる世界は、現実が安定的な主体にとって耐え難いものであるという事実(トラウマ)を回避するために形成されたフィクションであり、その形成の鍵を握るのが、幻想(空間)の創出だということである。
そのメカニズムを、ジジェクは、(整合的な世界認識の)内在的な「不可能性」を「禁止」へと転換することとしてとらえる。

より正確にいうと、それは不可能なものを禁じられたものに変えるのである。(ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』p224)


予想されるとおり、ジジェクはこのメカニズムを、ネーションの問題に結びつけて論じているが、それは一般的には、至福の領域としての「彼方」を思い描く「幻想」と、われわれが「現実」と呼んでいる一見整合的なシステムとの、共犯関係への批判なのだ。

ラカン精神分析の根本テーゼは、われわれが「現実性(リアリティ)」と呼ぶものはこのような「至福」を、つまり、あるトラウマ的な<現実的なもの>の排除を背景にして自らを構成するのだということである。これは、ラカンが、幻想こそは現実性の究極の支えであるというときに念頭においていることにほかならない。「現実性」は「象徴的至福」の幻想の枠組みが<現実的なもの>の深淵を覗き見ることを遮るとき、安定するのである。(p229)


<彼方>の幻想こそが、この世界の「現実性」というフィクションを成立させ、システムを安定させる。それは、罠のような仕組みだといえよう。中上の描く「路地」は、ネガティブなものとしては、そのように機能したはずだ。


現実の耐え難さに直面したとき、いや、現実が耐え難いという事実そのもののトラウマ性に直面したとき、「彼方」としての「幻想」とそれを通して形成される「現実性」というフィクションの力なしに生きていく方法。
それをジジェクは、ラカンの「女性的」な論理という表現のなかに見出そうとしているわけだが、それは具体的にはどういうものと考えられるだろう。
ひとくちに言えば、「女性的」な論理とは、こちら側、世界と主体との折り合いがたさという現実のなかに踏みとどまろうとする思考であり、その怒りや苦しみや悲しみから発して、世界を愛し、変えていこうとする意志、そしてその出発点を決して手放すまいとする態度だといえると思う。
それはいわば、日常的な生と関係の場からはじまり、普段にそこに立ち戻るような、世界への働きかけであり、「愛」である。ジジェクは、ラカンにならって、こういう位置に自分を見出すことを、われわれのすべてに要請するわけだ。
「女性」としてのわれわれは、「理念」による統合を拒み、「今、ここ」に、愛とともに踏みとどまる。
ここでは、中上健次が描くオリュウノオバの「路地」を見つめる眼差しのなかに、そのひとつのモデルが見出せるのではないかと考えてみた。

千年の愉楽 (河出文庫―BUNGEI Collection)

千年の愉楽 (河出文庫―BUNGEI Collection)