力の否認

たとえば、パレスチナ問題について、また沖縄の基地をめぐる議論において、紛争の当事者たちや、対立する意見を持つ現地の当事者たちのそれぞれについて、「どの人たちにも、それぞれに切実な立場というものがあり・・」といった、一見リベラル的な言及(解説)がなされることがある。


だが、こうした物言い(視点)が意味しているのは、それぞれの当事者に苛酷な状況を強いている現実的な力、つまりイスラエルによる占領を容認している国際社会や、米軍基地の存在と集中を現前させている日米関係というものを、見ないままにしておきたいという、語る側の願望(欲望)なのだ。
つまりそれは、「パレスチナ」や「沖縄」の状況を、「語られる対象」として、つまり自分が生きている現実とは切断されているもののままにしておきたいということであり、自分にとって「関与可能な事柄」ではないと思いたい、ということなのである。
重要なのは、当事者である人々を「切実な立場」に追いやっている現実的な力を可視化しようとすることであり、それに現実に関与しうる(したがって変容させうる)自分の力を否認しないということだろう。
力の否認に寄与してしまう想像力には、どこか良くない点があるのだ。