登攀・属性

雪崩に襲われ凍傷で手や足の指を失った登山家の夫妻が北極圏の岸壁に挑むNスペの再放送、終わりの方をちょっとだけ見た。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080107.html


ぼくも学生時代、山岳部に居たことがあるが、ロッククライミングなんて、怖くて出来なかった。
あの世界では、手や足の指を失った人というのは、けっして珍しくない。それでも多くの人は、当然のようにそれでも山に登り続けるのだ。


「ふつうの日常」の側から見たら、異様な世界に思えるのだが、じつはこちら側の「ふつうの日常」というのも、同じような世界ではないか。
身心がぼろぼろになっても、死に追い込まれるまでそれが当然のように働き続ける人、あるいは働かないことを続ける人、その「当然さ」によって、こちら側の世界の「ふつうの日常」は成り立っている。
最近の日本の社会では、その「当然さ」の凄惨な実像が、露呈してきただけだろう。
これは、人間が社会(企業や家庭)で生きていくということは、どこか「狂った行為」であるということを示してるのだと思う。
セーフティネットはたしかに必要なのだが、人間が「狂っている」ということから抜け出せない存在であるらしいということは、常におさえておく必要があるだろう。
ロッククライミングに生涯を賭けているような人たち、あるいは「運動」的なものに命を賭けてしまうような人とか、ぼくたちが生きていることの本当の形を正直にさらして生きてしまってる人たちを見ると、そういう感想を抱く。


だから、たしかにぼくたちの誰もが、一人で(もしくは誰かと)真冬の岸壁を攀じ登っているのではある。
ところでこのとき、人間は、自分の身ひとつでこの登攀を行っているわけではない。というのは、さまざまな「属性」と呼ばれるものを携えて、人間は生きていくからである。たとえば、国籍とか性別とか。
「属性」は、身に携えるものだが、それなしで生きていくわけにいかないようなものでもある。


自分の「肉体」というものは、属性だろうか?
自分の肉体から切り離された自分自身を考えることは、なかなか難しいだろう。そういう「自分自身」を考えてるのも、自分の肉体(の一部である脳)なわけだから。
しかし、移植とか、肉体の一部を誰かに移譲することはできる。
だから肉体は、自分が自分であることの核心ではない。だが、それは自分にとって容易に切り捨てられないものでもある。
なぜ容易でないと言えるのかということが、分かりにくい。
人は肉体によって、この世界に打ち込まれ結び付けられているともいえる。だが、そのように意味づけることが出来るのも、この肉体によって思考しているからである。


ところで、「属性」というものはたしかに考えられるが(つまり「属性」と書くことは容易だが)、ある固有の生(私)から切り離された抽象的な何らかの属性というものは、はたして存在すると言えるのだろうか?


追記
だがそうは言っても、ロッククライミングや「運動」には、「日常」(の狂気)とはどこか違ったものがある。
たしかに、前者が後者に墜する場合は多々あるし、後者の中に前者に通じる要素があるケースも多々あるだろう。
だが、ともかくそこには何か違いがある。