今日気になった二つの記事から

ちょっと、バサバサっと書きます。


『kmizusawaの日記』さんや『Demilog@はてな』さんで話題になっていた、『いちヘルパーの小規模な日常』さんのこちらのエントリー、
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070119/p1

ぼくも、最初

そのいくらかは「生きづらい」「自分は変わり者だ」と思い込みたがる小児的目立ちたがり屋や勘違い女どもに過ぎないとしても。


とあるところを読んだときは、自分のことを言われてるようでドキッとしたけど、エントリーの全体を読んでみると、とても共感できる内容だと思った。
とくに、

しかし、自分の属さざるをえない位置は「第四階級」や「こわれ者」ではないし、また自分が言葉を使用するアリーナはそこではない。


とあるところ。
自分が「底辺」ではないという、他者への明晰な意識を持つことは、自分よりも深刻な境遇にある人たちがいるからというだけではなく、自分自身の表現や思考の位置を明確にするために、とても大切なことであると思う。
このエントリーに書いてあることというのは、言説を抑圧する「どん底比べの政治」につながるものではなくて、逆に、それぞれが自分の言葉で、「自由に」感情や意志を表現していくために必要なことなのだ。
ぼくは、この文章をそういうふうに読みました。


それから、もうひとつとても気になったのが、『日々。生きる現代文学』さんのこちらの記事。
http://booksarch.exblog.jp/5043472/

わたしが奥にひっこんでいるときは
大阪市と 文章のことで もめていて
ホームレスについての表記だ
実際にホームレスという状態で生きている人がいて
その文化を語っているというのに
その事業が大阪市のお金で行われている以上
それを認めない という


このやりとりは、「この世の仕事」というタイトルの、20人の人が、それぞれに自分の仕事を語っていくというイベントの舞台裏であったものらしい。
大阪市は、ホームレス(野宿者)の人たちの存在自体を認めようとしないということか。
またその人たちがそれぞれに自分で生きて、自分の生活や文化を作っていってるということを認めたくないのだろう。
長居公園をはじめ、また大阪市内の他の公園でも野宿者のテントを排除しようという動きはずっと続いているので、行政としては、野宿者が「仕事」をしてる、自分たちで自分たちの生を毎日維持し、切り開いていっているということなど、認めるわけにいかないのだ。


たしかに、たとえばこの人たちが空き缶を集めたりしている、日々生をつないでいる行為を、別に「仕事」と呼ばなくてもいい、とはいえる。
でも、そうやって自分で自分の命を日々つないでいく営みを「仕事」と呼ばないとすると、「仕事」ということの本質は、組織や全体に奉仕するということなのか。
ぼく自身は、人がそれをしないでも生きていけるのであれば、別に「仕事」や「労働」などあってもなくてもいいと思うが、ただ野宿者以外の人たちのそうした日々の(労働)行為が、「仕事」と呼ばれてスポットを当てられるなら、野宿者の毎日の行為だけが、そこから排除される理由はないはずだ。


組織や全体の論理でなく、人が生きるということに主眼を置いて見るならば、「仕事」という言葉の意味合いはこれまでとは違ったものに感じられ、同時に、野宿者以外の人たちの生と野宿者の生との関係はフラットなものになるということではなく、ある意味で不可分なものとして見えてくるだろうと思う。