行き暮れて

今日は引用からはじめます。

(前略)つまりまず私の存在の快の大きな部分が既に私でないものがあることの快である。そして、私のまわりのすべてのもの、世界全体が広義の他者なのだが、しかし、人――だけであるかはともかく――はやはり特別ではある。それは、その一人一人に世界があることに由来するだろう。快であるとは、同時に失われることへの哀惜でもあり、他者が失われることの切実さは、そこにおいて世界が一つ消えてしまうことの切実さだろう。その切実さは、ときには私が生きていたいことを凌駕して、その人の世界が続くことの方を優先することさえある。(立岩真也著『自由の平等』岩波書店 p135)

Xが私でない人Bを認めなくてもA自らは実際上の不利は被らないかもしれない。しかしそのことによって私は私が存在していることがそれだけで認められているのではないことを知る。私は人が査定されそれによって受け取りや評価が決まるのを見る。そのようなあり方が私が生きたいように生きることを掘り崩す。(同上 p137)


きのう、『自由の平等』から少し引用したのだが、きのう読んだ中に他にも印象に残った部分があり、心残りだったので、ここに引いてみた。
ひとつめの文章は、たしかにそうであると思い、そういう切実さにおいて自分の生を生きている人が、この世に数多くいるのだと実感する。二つめの文章は、他人を見る自分の眼差しを強く反省させられるものである。相手を物象化して眺めることで、一人ならず、人々と自分の生きていることの基盤を傷つけるのだということ。
読むのがほんとうに難しいというか、厳しい本だ。


今日は朝から外出して阪急電車に乗り、宝塚市にある清荒神へ新年の賑わいを見に行った。ここは、阪神間では有名な寺社のひとつだが、「清荒神清澄寺」という名称が示すように、荒神信仰と真言宗が合体した「神仏習合」のお寺である。
いわゆる荒神(こうじん)さんは全国各地で信仰されているもので、古来より「荒振神」(アラブルカミ)とも呼ばれて畏れられてきたとのこと。火の神・竈の神とされることから、飲食業や水商売の人たちも、ここによくお参りに多く来るらしい。火の神ということだからだろう、ここ清荒神の境内にも、使い終わった火箸を大量に供えてある場所がある。これがどことなく、インドっぽい。
千のプラトー』(このネタをやたらに出すが)にも、移動する鍛冶師の民の姿を記述した「冶金術的インド」という魅惑的な一節があったよなあ。
ちなみに兵庫県出身の大物知識人、柄谷行人さんのペンネームは、この地に由来しているらしい。
というのは、嘘である。


駅を出たところから続く長い参道は、三が日には大変な混雑となるので帰路にのみ使用され、参拝するには山腹を大きく迂回しなくてはならないのだが、この日はすでに4日だったので規制はなく、平常どおり参道を登ることが出来た。
両側には土産物屋などがずらりと立ち並び、平日でもなかなかの賑わいを見せている。
大阪近辺では「石切さん」と共に、民間信仰の代表的な場所だと思う。
この日は時間が早かったためか、人出もまだ少なく、沿道の露店もあまり開いていなかった。
頂にある境内に入ると、いつも思うのだが、そこだけ空気や光が違って感じられる。そういう空間設計が昔からされてるのだろうが、周囲の環境はすっかり開発されて変わってしまってるというのに、その静かさ、透明さには、さすがだと感心させられる。
とくに何を祈るというのでもなく、本堂の前に立ち目を瞑って手を合わせた。
神社なのかお寺なのか、ほんとに分からないんだよなあ、ここは。


帰路、母に前から頼まれてたので、参道の途中にある「小やきや」という店で名物のおやきを買った。これは、天然のヨモギの入った餅のなかに餡が入っているもので、他にはないおいしさだそうだ。ただ、この店は有名なんだけど、結構気まぐれで、いつ開いてるのかが判然としない。まあこういった店は、そういうところがまた人気を呼んだりするんだけど。
スイープトウショウみたいなもんだな。
このほか、参道の入り口ぐらいにある大阪屋という専門店で山椒昆布を買う。
昼前には帰宅して、雑煮にも飽きたということで、今日は善哉(ぜんざい)を作って餅を入れて食べる。
考えてみると、年末、年始と、年下の友人の相談というか、悩みのようなことを聞いたりしてるが、ほんとうはぼく自身、今年はたいへんな年になるだろうと思う。いや、今年というより、これからは毎年がたいへんだろう。
あまり先を心配しても仕方ないので、今はとりあえずやりすごしてるのだが・・。
実際は不安なことばかりである。
いろいろ他の人との関わりも出来ているので、健康にも留意して、なるべくがんばっていきたいと思うが・・。


ここが思案の 善哉かな。


追記:「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」
   この最後のところは、「よしやかな」と読むそうです。なぜかはわかりません。
   「ぜんざいかな」だと字余りになるので、妙だと思っていた。
   なお、この句でも有名な織田作の名作『夫婦善哉』は、
   今年、金秀吉監督で再映画化されるとのこと。   
   http://www.nikkei.co.jp/kansai/history/34499.html
   主演の柳吉役は、トヨエツがやるという噂を聞いたんだけど、どうなるんだろう?