「風刺画事件」の番組について・補

先日の記事のなかでNHKの『33か国共同制作・民主主義〜世界10人の監督が描く10の疑問 』というシリーズのなかの、デンマークの「風刺画事件」を扱った番組のことを少し書いた。


あそこには本当に結論的なことだけを書いたのだが、番組(フィルム)の作り手のスタンスについては、首をひねる点の多々ある内容だった。
デンマークの新聞がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことがイスラム圏の猛反発を招き、抗議デモが起きて大使館が焼き打ちされるというようなことも発生した。
この記憶に新しい事件を、デンマークのジャーナリストが検証する内容だったのだが、非常に月並みな内容、という印象を受けた。
そこには、「表現の自由」を圧力や暴力によって脅かされたという被害者意識のようなものだけがあり、異なる文化圏の人たち、それも自分たち(の文化圏)が長らく支配や抑圧・蔑視の対象にしてきた文化圏に属する人たちの感情を「表現」の名のもとに傷つけたであろうことへの反省のようなものは、まったく感じられなかった。


まず、番組でも映されていたが、これらの肖像画の内容は、多くが「揶揄」に属するものである。たしかに、それが「表現の自由」の名のもとに許される場合もあるだろう。だが、基本的には「良くないこと」であり、それも「暴力」であることに変わりはない。つまり、誰かの心をたやすく傷つけてしまう恐れ、またその事実を冷笑によって自らに否認する恐れのある行為ではある。表現する者、ましてマスコミのような場でそれを公開する者には、少なくとも、そのことへの自覚は要る。
次に、番組で紹介されてたところでは、「預言者の肖像を描いてはならない」という明確な記述はコーランにはないそうである。しかし、特にスンニ派の人たちは、それを事実上禁じられている事柄と受け止めており、これも番組で紹介されてたように、シーア派の国であるイランでも、最近ではスンニ派の人たちの気持ちに考慮してムハンマド肖像画を店に置いたりしないようにしてるほどだそうである。
つまり、「揶揄的な表現である」ということをのぞいても、相手方の宗教的なタブーをあえて犯す行為だったことは争えない。
表現の自由」を言うのであれば、その行為への責任、つまり自分たちがやったことの意味と、その底に何があるのかということの検証、そして相手方にどのような傷を与えることになったかということの究明というものが、同時に必要だろう。
そういう姿勢が、この番組からは感じられなかった。


この番組の主人公がやった主なことというのは、イスラム圏で起きた抗議デモが、政府などにより扇動された人為的なものだったということを「暴く」ということである。
扇動があったとしても、そこに向かって扇動される側の必然性というものはあるはずで、その必然性の一端を作ったのは、あくまで自分たち(ヨーロッパ、マスコミ)の側であるはずだ。
結局、自分たちの行為、自分たちの存在、自分たちの心理といったものを直視しないための口実として、抗議デモの人為性といったことにスポットが当てられているのである。もっと詳しく言うなら、自分たち(ヨーロッパ)に対して怒っている人々(他者)の心情を直視しないですませるため、否認し続けるための口実として、「デモの人為性」という事柄の一側面だけがクローズアップされる。
この作り手たちが言いたいことは、「ここには他者などいない」ということであり、その真意は「私たちは無実(無垢)だ」ということである。


ぼくは、この出来事の根底にあったのは、ヨーロッパがイスラムに対して抱いている根深い差別的な感情であると思う。
その感情は、ヨーロッパがイスラムという他者との関係のなかで、現実的に獲得し維持し続けてきた位置の特権性を正当化するために活用されるのである。つまり、「彼ら」が「われわれ」に対して向ける正統な「怒り」を、理解不能な野蛮さか、もしくは扇動された結果の人為的な感情(扇動されやすい無知蒙昧な異教徒たち)というイメージのなかに包み込んでしまうことによって、「われわれが彼らに何をおこない続けているのか」という事実の光から、自分たち自身の身を守っているのである。
その欺瞞的な行為をさらに補強するために、「表現の自由」という「市民」のための論理が普遍的な理念のごとくに持ち出される。


表現の自由」のような理念は、本来それが保障されることのない人々、つまりは「市民」ならざる者を守るためにあったはずである。
共同体の成員の権利だけを保障して、そうでない者の心や生命が傷つけられることを正当化するために、そうした理念が用いられるべきではない。
そうならないためには、そうした理念を(とりわけ他人のための)武器として行使する人が、自分が属する支配的な共同体や文化から、出来る限り独立している必要があるだろう。


だが無論、そうしたことの重要性は、ヨーロッパよりむしろ、われわれの国の社会においてこそ、高いというべきだろう。
朝鮮半島や中国などに対するわれわれの態度が、欧米がイスラムに対してとってきた態度よりましであるなどと思うのは、あまりに薄っぺらな比較というものだ。