新春のある一日に

午後、同居してる伯父のところに、いとこ(つまり伯父の息子)夫婦が子どもを連れて年始の挨拶に来るとの事で、ぼくは顔をあわせるのが嫌なので、家を出て、天満の天神さんのあたりに行くことにした。


天神橋六丁目で地下鉄を降りて、昔(どのぐらいだろう、15年以上前と思う)印刷会社に努めていた頃よく行った小料理屋のような店が源八橋の方にあったのを探して歩いてみたが、さすがにもう無くなってた。
天神橋の商店街をぶらぶらと、天満宮まで歩く。露店はたくさん出てるのだが、参詣客はそんなに多くない。特徴のない神社だし、「日本一長い商店街」と言っても、通りを一本外れると閑散としている町なのだ。
毎年のことだが、うら寂しい感じのする新春の光景である。もう何十年も同じ正月を反復してるみたいな気がする。


年賀状というものを書かなくなって久しいが、ありがたいことに、それでも賀状をくださる方が何人かいる。
返事を書くために葉書を自販機で買おうと思って郵便局に寄ってみたが、民営化の影響なのか、自販機が無くなってた。


それから、ブログの方も長くやっているおかげか、このところ読んでる人からメールをもらったりする。まったく思いがけないところから、そういう便りや声が届くのである。
まあ、コメント欄を使えなくしてるので、他に方法もないわけだが、ほんとに嬉しいことである。


夕方には帰宅。
深夜のテレビ番組、タカアンドトシが司会のお笑いバラエティーは、期待してた以上に面白かった。これは、ぼくの中では画期的な番組だった。
タカトシって、ほんとに面白いよなあ。


その後、やはりNHKのドキュメンタリー、『33か国共同制作・民主主義〜世界10人の監督が描く10の疑問 』のなかの、デンマークの新聞がきっかけになった例の「(ムハンマドの)風刺画事件」を題材にしたもの。
これはほんとに難しい問題だけど、最終的にはその表現の底に「悪意」(差別や敵意や憎悪)が存在するかどうかを是非の基準にしていく、という姿勢が必要ではないか。
その見極めは不可能に近いということは分かるのだが、最も重要なことは人が自分のなかの「悪意」と向き合い、それを克服していくことであると思うから、そう言うのである。
ああいうふうにヨーロッパで作られた番組を見てると、宗教の力を公的な空間において制限しようとしたり、その意味で「表現の自由」を掲げるということも、それ自体ひとつの原理(ドグマ)であるという気がしてくる。ドグマとは、人に自分のなかの「悪意」と向き合わせないようにする力のことである。
表現の自由」という名のドグマも、ときには恐ろしい。だが、他のドグマ(宗教とか、天皇万歳とか)によって、「表現の自由」が侵されることも、「表現の自由」自体が大事だからじゃなくて、他の何か大事なものが損なわれるゆえに恐ろしい、あってはならぬことである。
ドグマとドグマの重なり合うなかで、この「他の何か大事なもの」が損なわれないようにしていかなくてはならぬ。そのための方法として、初めに書いたような姿勢を保っておくべきではないかと思う。
日本の場合、このドグマ同士の緊張関係のようなものがあまり意識されないために、かえって、人の心の大切なものが軽んじられ、踏みにじられるような社会になってるという感じがある(もちろん、最も露骨な例は北朝鮮バッシング。)。
今後ますます、剥きだしの緊張関係のなかにこの社会が投げ出されていくことによって、生じる事態がひどく心配だ(もちろん、自分自身も)。