書くことと信じること

旧年中は当ブログをお読みいただいたこと、心から感謝します。
本年もなにとぞよろしくお願いします。


たまたま年末から読み始めた本のはじめの方に、こんなことが書いてあった。

自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわち、わたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知をたがいに交わらせるような極限的な尖端でしか書かないのだ。そのような仕方ではじめて、ひとは決然として書こうとするのである。(G・ドゥルーズ著『差異と反復』河出文庫版 上巻p17)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)


誰も思うであろうように、自分がどのようにして書こうとするのかを言えといわれれば、このようにしか言えない。
もちろん、常にこのような場所に立って文を書けるというわけではないが、こんな場所に立つことなく文を書き始めているときには、自分にはどこか「決然として書こう」とはしていないところがあるのである。
こうしたところに何かを書いて、人に読んでもらう以上は、いつもこのような場所から書き始めることを心がけたいものだと、掛け値なしに、愚直に思う。


もう少し具体的に打ち明けると、ぼくの場合エントリーを書くときに多いパターンは、書こうと思う事柄について、思うことを断片的にメモしておき、そのメモを見ながら一応プロットを組み立てるようなことをする。
だが、いざ書き始める際には、順番どおりに書くということはあまりなく、書き出しが思いつくと、そこから書きながら自分で航路を切り開いていくという感じになる。書き忘れのないようにメモを見ながら書いていくわけだが、書き始めるまで全く思ってもいなかったようなことを発見するということもしばしばである。
これは自分の意思をある程度はなれて自動機械にまかせるような感じもあり、その自動機械と自分の意思とがうまくかみ合ったときには、自分としては納得のいく文が書けることが多い。


だが、結局は他人に向かって何かを発信しているわけだから、自分が書いたものが読んでくれた人に何かを与えるものでなければ、ここに書いてる意味がないことも事実である。
このことをどう考えるかは、やはりむずかしい。
しかし、こういうことは言える。
自分が社会や他人に対してするべきことのなかで、ここ(ブログ)に何かを書くなどということは、どこまで行っても極小である。極小ではあるが、他に出来ることがないので、もしくは他にあったとしてもこのことの意義がゼロではないので、ここに書いているわけだ。
だが、「ゼロではない」ということを、ぼくが断定することはできない。
「ゼロでないかもしれない」ということに、賭けるだけである。信じるだけである。
そして、この「信じる」ということのなかにだけ、ただそこにだけ、ぼくが書くことの社会的な(他人にとっての)意義、つまり共有可能な何かはあるはずだと思う。
「信じる」という態度を示せることであれば、もちろんそれは「ブログ」という方法(手段)である必要もないのだ。
ただ、とりあえず実行可能なこととして目の前にある、この方法を通して「信じる」という態度を学び、わずかな実践を重ねていくのみである。