悲しむ自由

前回のエントリーで紹介した番組を見ました。


自分も行ったことのある場所も何箇所か出てきて、事件の経緯は詳しく紹介されていたと思います。
感想といっても、簡単には書けないですが、金石範さんが済州空港の近くの、遺骨がたくさん発掘された場所に立って話されていたなかで、「悲しむ自由」という言葉を言われていたのが、とくに心に残りました。
遺骨が発掘されたこと(それは、事件の全容が究明され、公的に認められつつあることとつながっているが)で、自分たちははじめて悲しむことが出来るようになった、という意味合いであったか、と思います。そのことを、金石範さんは、「私は嬉しいよ」という言葉で表現されていたのが、ぼくには印象的でした。


それで思い出したということではないですが、やはり最近読んで印象深かったのは、3年前の福知山線の事故の犠牲者の遺族の方が、「悲しみは乗り越えられるものではなく、受け入れられるかどうかだ」と語っておられた、という新聞の記事。
到底乗り越えることなど出来ず、受け入れて、共にあることしかできないような悲しみというものがあるかも知れず、でもそれと共にあることが生きていることそのものである。そういう悲しみや、その他の感情というものが、あるということかも知れない。


そうすると、自分はそういう感情の現実性や、金石範さんが言われた「自由」というものを、ちゃんと持ちえているといえるだろうか。
これらの言葉を見聞きして、そういうことを思いました。