民主化というレッスン

李明博が当選した韓国の大統領選挙について。


選挙中から現与党側の苦戦という報道を聞いていて、ぼくが当初思っていたことは、経済格差の拡大に有効な手を打てず、新自由主義的な政策しか行うことのできなかった金大中盧武鉉両政権が、支持層に離反されるのは当然ではないか、ということだった。
いや、当然だということではなく、そんな形で離反されるということ自体がよくないことである。つまり、「民主化」の流れのなかでハンナラ党による支配から政権を奪った韓国の民主化勢力は、政権の座についたものの、とくに経済や福祉などの社会政策の面で、自分たちが掲げていた「オルタナティブな」政策を実行できないままに終わった。
そういう形で政権を退いていくということは、「民主化」という政治的な流れにとって、たんなる後退しか意味しないものだ。そういうふうに思っていた。


だが、これはぼくの認識不足で、金大中盧武鉉両政権は、生活保護制度の創設や、医療・教育面など、それまでの韓国の社会からすれば考えられないような、社民主義的ともいえるような政策を実現していたらしい(もちろん、もともとがないに等しかったわけだから、不十分な実情ではあっただろうが。)。
その一方で、通貨危機以後の新自由主義的な経済運営による経済成長を維持していた。
しかしそのことが、もっとも恩恵を被ることの少ない中間層の離反を招いたという、特殊な事情があったようである。


そういうことだとすれば、今回の政権交代が意味するところは違ってくる。
与党への支持の低下と、今回の敗北には、もちろんそれなりの理由があるだろう。
政党の四分五裂ぶり、社会変化にともなう国民のイデオロギー離れに対応できなかったことや、何のかんの言っても格差の拡大や非正規雇用の増大など、新自由主義による歪みに歯止めを掛けるような政策を行えなかったことなど、反省するべき理由は、いくらもあるだろう。


だが重要なことは、民主化を叫んだ勢力の側が、曲がりなりにも自分たちの掲げていたような理念に近づこうとする政策を実行し、そのことの是非を選挙という形で有権者たちに問うということがなされたこと、それ自体である。
韓国の場合、「現与党VSハンナラ党」といった対立の図式は表面的なことで、「民主化」と呼ばれるひとつの必然的な運動が、それを抑え込もうとする諸力に対抗して、どのようにその運動自体を進展させていくか、深めていくか、ということが最も大事な観点であると思う。
その意味では、この国の民主主義のプロセスは、今も日本からの独立闘争の継続としてあり、アメリカや中国といった周辺の大国からの自立(独立)の獲得という側面を強く持っていると考えられる。同時に、そうした運動を進展するとか深めるとかいうことは、それを必ずしも国民や民族という枠に収まらないようなものとして展開するということであり、韓国の民主化運動というのは、そういうグローバルなポテンシャルを持っていると思う。


金大中盧武鉉両政権がこの10年間に進展させた民主化のプロセスは、通貨危機からの出発という困難な条件からはじまったこともあり、多くの不十分な点を抱えることになったといえるだろう。
その結果として、人々はこの政治勢力による政権の継続を望まないという選択をしたのである。
つまり、人々はここで示された方向性に「ノー」と言ったわけだが、「ノー」と言ったのは、民主化の主役である人々(民衆)の声なのである。
かつては、「イエス」であっても、「ノー」であっても、その声が政治のあり方に反映することのない社会だったが、民主化の過程を経て、今は、その声が政権を交代させるところにまで来た。


もちろん、今回示されたこの「ノー」という声が、どういう結果をもたらすのかは分からない。
民衆の声だから常に正しい選択をする、などということはありえない。
だが肝心なのは、この国では、民衆自身が政権や政治の方向の選択をするということ、また選択の結果が正しくなかったと思えば、それを修正せよという意思表示をやはり民衆自身が立ち上げて行うという訓練が、こうして実践的に行なわれ続けているということだろう。


この隣国の政治の運動が、そしてその主役である人々の意識が、今もそうしたダイナミズムのなかにあることを、ぼくは信頼したいと思うし、緊張感を持ちつつも、我々がそこから学びとるべきことはきわめて大きいはずだと思うのである。