少子化を云々する論への疑問

保育所など保育施設の不足というのは大きな問題になっているそうで、子どもを預けて働くということも出来ないようだから、子どもを産む(つくる)のをためらう、という声が多いらしい。
たしかに、育児のために働いて生きていくことも出来ない現実というのは、変えなくてはいけないだろう。深刻な問題だ。
もちろん、施設の拡充だけでなくて、コミュニティ(関係性)とか労働現場のこととか、考える要素はたくさんあるだろうけど。


ただ、いつも「少子化」の話題に接すると、不思議な感覚に襲われる。
「命の大事さ」ということがよく言われる。
それは、生れてきた命、あるいは妊娠することによって生じる命、つまりは(なんらかの意味で)実在する命である。
一方、「子どもをつくるのをためらう」といった場合、この命は、どんな意味でも(いまだ)存在していない。ためらうことによって「生れない」ことになった存在というのは、「命」というものとは別の観念上の存在のようなものだろう(もちろん、受精卵や胎児の存在とは別である)。
それは統計上(予算のための試算など)は存在が仮定されるが、それ以外には存在しない。これは、「命」という要素を軽視すること、その生存や生誕という事実を重く見ないことによって、はじめて浮上してくるような「存在」の観念ではないかと思う。たぶん、「少子化」の議論には、そういう要素があるのである。
命の事実性を軽視したうえで、人の存在を数としてのみ論じる。そうした構造は、たとえば国家による追悼の問題にも関わるものだと思う。