理解できない欲望

インド代理出産:女児、無国籍状態に 父、早期帰国を要請

http://mainichi.jp/life/edu/child/archive/news/2008/08/20080809ddf041040009000c.html

男性は昨秋、関東の医師仲間の紹介で、インドにいるインド人実業家を通じて現地の病院に「第三者卵子提供で代理出産をする」ことを依頼。男性は取材に、代理出産を頼んだ理由について「男として子どもが欲しかった」と説明した。その前にはインターネットなどで代理出産について調べ、米国の病院に「独身でも代理出産を頼めないか」と問い合わせたこともあったが、断られたという。


「男として子どもが欲しかった」って、どういう意味だろう?
「子どもが欲しい」だけなら、そして切実にそう思ってるのなら、代理出産ではなく、身寄りのない子を引き取って養子にして育てればいいと思う。
どうして、それじゃ駄目なのかなあ?
「男として」というのは、つまり自分の遺伝子を受け継いだ子どもを持ちたいという意味だろうけど、それは性的なパートナーとの関係があって、はじめて出てくることだろう。
それがないところで、遺伝子を受け継ぐ(いわゆる)「自分の子ども」だけを特権化して考えるというのは、まったく倒錯してるという気がする。


生まれてくる子どもの命は、親の願望を満たすための道具ではない。
ある関係のなかで、子どもの命が芽生え、育まれ、この関係のなかで親の願望がその子どもの命(生)に投影される、ということはもちろんある。それは、一概に分離したり非難できるものではないだろう。
だが根本的には、親にとって、子どもの命(生)は、自分の願望や欲望を越えた存在だ。子どもが「授かり物」と言われるのは、そういうことだと思う。
パートナーとの性的な関係のなかで子どもが「授け」られる場合には、遺伝子を共有する子どもが生まれる。パートナーがいても、授けられない場合、はじめて「代理出産」ということもひとつの方法として出てくるのだろうと思う(ぼくは、この方法には反対だが)。
しかし、今回の事例では、そうしたパートナーとの関係以前に、「男として子どもが欲しい」という気持ちだけがあったことになり、代理出産を望んだことになる。これは、まったく理解できない。
なぜ、養子ではいけないのか?


たしかに、「養子」といっても、国際的な養子縁組の場合は特にそうだけど、「代理出産」と同様の難しい問題がある。
子どもを、「男として」だかなんだか知らないが、ペットのような感覚で欲したりするような大人に引き取られたら、子どもは不幸以外の何者でもないだろう。
だから、身寄りのない子どもたちが、既に今の世界には膨大な数居るといっても、そういう人に「養子をとれ」と勧めることは、子どものことを思うと本当は出来ない。


問題は、(遺伝子を受け継いだ)自分の子が欲しい、という気持ちが、他人(パートナー)との具体的な関係がないところで、ひとり暴走してしまうということの理解しがたさである。
こういう人にとっては、子どもの命も女性の存在も(もちろん、代理母となった人の心身も)、自分の幻想を満たす道具に過ぎぬものになっているのだろうと思う。
生まれた子どもがこうした状況になるであろうことは、これだけ下調べをしていたのなら、当然予測できたはずではないか。
無残なのは、この女児である。