「和解」と願い

ある新聞の解説によると、原告側が要求するように救済の対象を薬害による感染者の「すべて」として線引きを行わなかったとしても、実際にフィブリノゲン投与による感染の事実を証明できるのは、せいぜい千人程度であり、行政側が心配するような「救済対象者がどれだけ現れ続けるか分からない」という事態にはならないだろうという。
それにも関わらず政府が「線引き」を行おうとするのは、輸血による感染者など、他のケースにもこの問題が拡大していくことへの怖れからだろうと言われる。それ以外にも、さらに心配の理由はあるのかも知れない。


いずれにせよ、この問題がとてつもない拡がりを実際は持つにも関わらず、それが分かっていながら放置されてきたということが問題の根本なのであり、その事実関係や責任の所在を明らかにしないまま、今後も明らかにしないで置くための手続きとして、「線引き」による和解なるものを図るということが、許されない欺瞞なのだ。
「財源がないから」を理由として掲げて和解を迫るのなら、その前に本当はどれだけの補償の対象者が居ると考えられ、嘘偽りなく正直に支払ったならばどれだけ費用が必要と思われるのか、その全貌を白日のもとに提示するべきである。
明らかにすべきことを曖昧にしたまま、「財源」(税金)を人質みたいにして、問題の限定的な解決で幕を引こうとするのは、欺瞞以外の何ものでもなかろう。


ところで大阪での裁判の原告の人たちが、「線引き」を許せないと言い、すべての被害者の一括救済を主張し続ける姿を見ると、被害者の人たち自身が、自分以外の(多くは見知らぬであろう)他の被害者たちへの責任を背負う形となり、自分たちへの経済的な面での救済を犠牲にして(和解の拒絶や、全員救済のために受取金の減額を自ら提案するなど)まで、その責任を果たすために闘わざるを得ない姿には、どこか理不尽な、重苦しいものを感じることも事実である。
ここで和解案を受け入れれば、この人たち自身への法的・経済的な救済は、一定程度行われるであろうはずだが、あくまで「線引きのない、全員救済」を主張して、闘いを継続しようとする。
もちろん、そこへと追い込んでいるのは、責任を認めようとしない国や製薬会社であろう。


実際、日本では「和解」という法律用語は、とくに国などを相手にした集団的な訴訟の場合には、線引きを実現するための方策として原告(被害者)に限定的な補償案を呑ませ、そのことによって真の問題の全面的な解決(真の和解のための条件)を行わないで済むための法的な方法、という意味を持っていると言ってよい。たとえば今回のように、被害者の一部にだけ補償を行うことを旨とする「和解案」を原告に呑ませ、呑まなければお前たち自身への救済を行わないということを取り引き・脅迫の材料にして、問題を曖昧に決着させる。同時に、被害者の集団の間に対立や距離を生じさせて、運動・異議申し立ての力を削ぐ。
それが、日本の行政が「和解」という言葉のもとに行ってきた実態である。


だからこそ、今回裁判所が提示した「和解案」に、原告たちは怒ったのだ。
自分たちの存在を、問題の解決を曖昧にして事態を沈静化させるための「道具」として扱うこと。それは、この人たちにとっては、再度の「権力による生存の軽視・道具化」と映ったはずである。もちろん一度目は、訴訟の対象となっている事柄そのことである。
「お前たちにだけは補償をしてやるから、この幕引きの仕方で納得しろ」というそのやり方、事実を曖昧にして権益を守っていくがためのその見えすいた手口に対して、「私たちを見くびらないでほしい」という、あの切実な怒りの声は発せられたのだと思う。


だが同時に、あまりに苛酷な条件のなかで、自分以外の被害者たちへの責任までを背負って、退路を断つような闘いを続けているかに見えるあの原告の人たちの姿は、やはり重苦しい印象をぼくたちに抱かせる。
目の前の個人的な救済と休息を、求めたいという気持ちも、また自然なものではないか。
たしかに、そうも思う。
だがもう一方で思うことは、国により製薬会社により、そして裁判所によってまで、その命の価値や尊厳を軽視され否定されてきた人たちにとって、「他者(他の被害者たち)のためにすべてを賭してたたかう」という思いと行動自体が、その傷つけられた生の尊厳を守り、立証するための不可欠の方法となっている可能性を、他人であるぼくは否定できない、ということだ。
自己の利益のためばかりでなく、他者の利益のためにもすべてを賭するという行為において、自分の存在(生存)が権力が軽んじ押しつけた価値の薄っぺらさを越えるものであること、それとはまったく異なるものであることを、はじめて十全に示そうという願い。
「私たちを見くびらないでほしい」というあの言葉の本当の意味は、そこにこそあるのではないだろうか。