種の線引き

最近テレビを見てて、びっくりしたニュースのひとつは、これである。


「霊長類も絶滅危惧種
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/200/5779.html


もちろん「霊長類」全体が絶滅しそうだ、という話ではなくて、絶滅しそうな種は霊長類のなかにもいる、ということであろう。
だが、この見出しを見てなぜ驚いたかというと、「霊長類」を「類人猿」と取り違えたのだ。つまり、類人猿のなかのどれかが絶滅しそうだという意味に理解し、「それはおおごとだ」と考えたわけだ。
それは勘違いで、霊長類(猿)の仲間のなかのどれかが絶滅しそうということだった。それでも「おおごと」という気はするが、「類人猿の絶滅」ほどではない。
これはなぜそう感じるのか?生物学的に「人間に近い」とされるほど、その種の存続(生存)の如何が重大と考えるのか。


とはいえ、上の記事を読めば分かるように、実際に絶滅が危惧されているなかには、ゴリラやオランウータンといった類人猿もいる。
ゴリラ*1などは、内戦のときに兵士の食料にされて激減したらしい。それもショッキングではあるが、なぜショッキングだと思うのか?戦争のことは別にしても、ゴリラは「高等」だから食べるのはよくないと思うからか。「高等でない」(人間から遠い)動物ならいいのか。
これは「いいこと」ではないが、たしかにそういう感じ方もするようである。まったく「人間の身勝手」である。


だが同時に、こういう感じ方があることも事実である。
もしぼくが神様の相談役で、「現存する種のひとつを滅ぼさねばならないのだが、どれにするのが妥当だろう?」と相談されたとする。公平に考えれば、「残念ながら人間でしょう」と答えざるをえまい*2
だって、他の種は何も悪いことをしてないように思うからだ。
たしかに人間の行為、自然破壊も、自然の「進化」の一過程という考え方はあろう。そう考えれば人間だけの「悪」を責めるわけにはいかなくなる。
しかし、とりあえず人間を取り除けば、まだ今なら、決定的な地球環境の破壊は阻止できそうである。だから、それを取り除く、がん細胞のように。
だが、そういう冷徹な判断もまた、どこか「間違っている」という感覚が残る。
この感覚は「文化的」といって済ませられるようなものだろうか?


殺して食べてもかまわない動物というとき、あるいは絶滅してもかまわない動物というとき、われわれはどこかで線を引く。「高等だから」とか「人間に身近だから」というふうに。
そのときわれわれは人間であるから、どうしても人間中心ということになってしまう。
また逆に、「悪いことをしてきたから」とか「生物全ての全滅を阻止するために」という理由で、「人間」をこの線の外側に置く発想もでてくる。
だが、そのように線引きすることが間違いだという感じも、同時にわれわれのなかにあると思う。ぼくのなかにはある。
それは、例えば「生態系を壊さないように」といったこととは、少し違う感じである。


今すでにあるこの世界を、そんなに決定的に変えてはいけない、といった感じが、その底にあるようだ。
こんなことを感じるのは人間だけなのかどうか、誰にも分からないだろう。

*1:この書き方だとよく分からないが、ゴリラが食べられてたということじゃないかと思う。

*2:もちろん、自分の命だけは助けてもらいたいが。