『飼いならす』

 

飼いならす――世界を変えた10種の動植物

飼いならす――世界を変えた10種の動植物

 

 

 

この本をはじめて知ったのは、たしかジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』を読んでいてだったと思うが、邦訳されて去年は新聞紙上で多くの人が高い評価を与えていた。特に、福岡伸一氏が誉めた影響が大きいようだ。

それで、近所の図書館にあるのを見つけたので読んでみたのだが、最新の知見を紹介する科学読み物としては大変上出来と思ったものの、違和感の方が多く残った。内容の優れている点については、多くの人が書いてると思うので、その違和感についてだけ書いておきたい。

 

 

本書でもっとも議論を呼ぶところは(僕は勝手にそう思ってるのだが)、遺伝子編集や遺伝子組み換え(GM)について、著者が、その懸念や問題点は詳しく指摘しながらも、概ね肯定的に展望しているという点だろう(しかも、モンサントという企業名まであげながら)。

GM導入の必要性については、地球人口の急激な増大による食糧危機に対処するためということなのだが、僕が違和感をもつのは、そもそも著者にとってGMが、やむをえない必要悪のようなものではなく、進化の観点から見て理にかなった当然のものとされていることである。

確証のない「危惧」や「不安」に基づいてそれに反対を唱えることは、無知・偏見か、何らかの悪しき保守主義に属するものと考えられているようだ(たしかに、反GMが政治的保守主義と相性が良いといえるところはあるであろう)。そうした人々は、飼育栽培における種の交配は問題視せず実行していても、遺伝子の組み換えとなると、急に警戒や反発を示す。その根底には、「種の純粋性」に対する信念(イデオロギー?)のようなものがあるのかもしれない、というわけだ。

 

『(前略)だが時として、種は人間の都合で定義される。とくに、飼育栽培種とその野生の祖先に対して別の種名をつけるときには。

 交雑が起こる可能性は、野生種への飼育栽培種の遺伝子の「混入」に関わる倫理的な問題ももたらす。飼育栽培種を作り出してしまったわれわれは、現在生き残っている近縁の野生種を懸命に守ろうとしている。しかしこれは、現実の世界に本当は存在しない「種の純粋性」という考えを呼び起こすのではないか?(p61~62)』

 

それに対して、著者が強調するのは、多様性の保持や交雑によって展開してきた生物の進化(淘汰)の歴史である。

 

『ヒト―および飼育栽培化された協力者―を含め、非常に多くの種が本質的に雑種であることが最近明らかになったが、これはまさに驚きの新事実だった。遺伝学者さえ、「種の境界」がどれほどあいまいなのかがわかって仰天した。この発見は、遺伝子をほかの種へ移すことを倫理面から考えるための、新しい土台を提供してくれるにちがいない。(p402)』

 

だが、逆に言えば、多様性が守られるべきであるのは、それが進化のレースに勝ち残っていくことにとって有利だからだ、ということになってしまうのではないか?

「多様性」や「交雑」をかたくなに拒む、保守主義というより極右的な思想(両者が全くの別物だとしてだが)をもつ勢力への対抗として読めば、著者の主張はある程度理解できる。

しかし、著者の「多様性」賛美は、結局のところ、人間(例えば科学者や大企業)が作り出しつつある現実の変貌(それは破壊でもあると思う)のあり方を、肯定するためのロジックになっているのではないだろうか。

著者は、進化をめぐる事柄が、道徳や倫理の問題ではないことを強調する。ただ、事実としてこう(今のように)なったというだけだ、というわけである。だが、大事な点は、この著者の「自然史」のなかには、(GMを含む)人間の営みも、すっぽり含まれているということだ。

 

『ひょっとしたら、自然選択と人為選択を分けること自体が人為的なのかもしれない。ほかの種の進化に影響を及ぼす種は、ヒトだけではない。われわれの存在は、相互依存のもとに成り立っているのだ。(中略)われわれが人為選択と呼んできたものは、ヒトを介した自然選択にすぎないのである。(p379)』

 

モンサントのような大企業のやってることも、国家の政策も、すべて「結果としてこうなっただけ」のこととして、道徳や倫理の対象外の事柄として捉えられる。いわば、(汎神論的な)神の目から見れば、遺伝子操作も環境破壊も「自然の営み」の一部にすぎない、ということになるのか。

 

 

著者はもちろん、人間による環境破壊を是認しているわけではない。だが、現実に働いている破壊の力に対して、それをけん制する著者の議論のベクトルは、あやふやに過ぎると思える。これは、進化や文明史についての著者の捉え方や語りの力が、現実の力(資本主義)を正当化するロジックになってしまっているということではないだろうか。

著者の根本にあると思えるのは、人間は自然に対する全能の支配者などではなく、その主体性は、自然との相互的な関係性によって規定されたものだという観点である。

 

『多くの場合、飼育栽培化は意図せぬプロセスとして始まったのではないか。種と種が出会い、ぶつかり合い、近しくなり、ついには進化の歴史が絡まり合ったのだ。われわれは、自分が主人で、ほかの種は自発的な僕(しもべ)か奴隷だと当たり前のように考えている。ところが、われわれが動植物と結んだこうした契約関係は、それぞれに異なる複雑なもので、共生や共進化の状態へと徐々に進展した。最初にこの協力関係が築かれたとき、背後に思慮深い意図はほとんどなかった。(p379)』

 

 

『われわれと相互に関わった種が、かりにそうなっていなかったら―たとえば存在しなかったり、捕獲できなかったり、家畜化できなかったりしたら―ヒトの歴史はまるで違う展開を見せていたはずだ。時にわれわれは、己の運命をすっかり支配し、外部の力はほとんどあるいは何も役割を果たしていないかのように、先史時代も含めた歴史を知ろうとする。だがどんな種の歴史も、単独で語ることはできない。あらゆる種は、ひとつの生態系のなかに存在しているのだから。われわれは皆、相互につながり、依存し合っているのだ。そして、われわれのもつれ合った歴史で働いてきたすべての相互作用には、幸運と偶然が織り込まれている。(p381~382)』

 

 

こうした、脱主体的ともいえる歴史観、文明観は、非常に説得的だ。

だが、われわれが全き主体でありえないということは、われわれの責任を解除するものではない。(共生の)生物史や文明史の脱主体化が、環境を改変・破壊していくことに対する人間の責任を回避するための手段になってはならないだろう。