守られるべきもの

横塚晃一著『母よ! 殺すな』(生活書院)の読書ノートの一部。


本書を読んでいて強く印象に残ることのひとつは、障害者である著者たちが、生産至上主義的な労働のシステムにある形で組み込まれることへのあからさまな嫌悪の表明、また労働可能な身体に変えていく装置としてのリハビリテーションに対する激しい拒絶の意思表示である。
現在、こうした著者たちの態度は、「反労働」とか「反生産至上主義」という文脈で受けとられることが多いのだろうと思う(そうなのかな?)。
たしかに、社会の生産至上主義的なあり方が、人々を意識的・無意識的に障害者への差別、排除へと向わせていることが、本書のなかでも批判されているのであり、そういう社会のあり方を変えることなくして、障害者差別をなくすことなどできない、という思想は何度も語られている。だから、「労働」や「リハビリ」を拒絶する著者たちの言葉を上記のような文脈(反労働)で理解することは、思想の言葉の問題としては、間違いではないかも知れない。


しかし、本書を読むと、たとえば「リハビリ」ということへの拒絶の根底にあるのは、自分のありのままの身体(肉体)や、それとむすびついた存在が否定され、社会の支配的な秩序(健常者中心、生産第一の社会)に合うように変えられようとすることへの怒り、反感、つまりは支配的社会から「同化」を強いられることに対する憤りであることが分かってくる。
たとえば、横塚は次のように語っている。

僕達はリハは必要ないと、むしろリハがある限り障害者差別がなくならない。それから障害者を治す必要があるかどうかということだけれども、障害者は治す必要はない。ただし手や足を自分の使いいいようにするぐらいのことはやってもよい。それはあくまで障害者でなくなる、つまりなくすことではない。(p189〜190)


つまり、リハビリそのものが否定されてるわけではない。自分の存在やありのままの身体を基本的に否定しないような、もしくは本人の「主体」(横塚たちはこの言葉を重視する)のもとにあるような「リハビリ」であるなら、それは拒まれるにはあたらない。
拒まれるのは、「障害者でなくなる、つまりなくすこと」につながるような「リハビリ」(同化)である。
では、「同化」されてはならないもの、その核心とはいったいなんだろうか。
自分の存在のかけがえのない要素である、あるがままの自分の身体、またその存在のあり方というものが、何か外部の力によって否定され変えられていくということ、その自分の存在の「ありのままさ」が毀損されることへの怒りと抗い、そういったものが、上の横塚の言葉のなかにうかがわれると、ぼくは思うのである。
そして、この自分の存在の「ありのままさ」というものは、じつは自分であると同時に、自分を越えているともいえる要素ではないかと思う(だからそれは、「主体」という言葉には還元されない気がする。)。
横塚たちが、自分たちの怒りの意思表示に懸けて、守り抜き、また多くの人たちに指し示そうとしたものは、そのそれぞれの「ありのままさ」の尊重ということではなかったか。
横塚たちの「リハビリ」や「労働」への拒絶、敵対の表明は、じつはこの点にこそ関わるものとして読まれるべきではないか。


おそらく、横塚たちは、リハビリや、労働(生産)そのものを否定しようとしたわけではない。それらへの拒絶の表明、怒りの意思表示という形をとることをとおして、はじめて開かれてくるような、生産や社会的構築のあり方が、そこで展望されていたはずである。


母よ!殺すな

母よ!殺すな