怒りの解放

やはり『母よ! 殺すな』(横塚晃一著 生活書院)から。

それと障害者の存在を私たち本人がどういう風に自覚するかということが問題である。私たちは親睦をやってもいいんだと思っていても、知らないうちに政治的に利用されることがあります。昔は小さなグループを作り、いわゆるなぐさめあっていればよかったかもしれません。しかし、おとなしくしていればいいんだということが政治的に利用されることがあるわけです。(P278)

「私たち幾人かがグループを作って親睦でもいいじゃないか」ということでやっているということが、自分たちでも気がつかない間に「青い芝」とは全く反対の方向に巻き込まれてしまう、ということがあるわけです。私たち「青い芝」は脳性マヒ者としての立場から運動を続けなくちゃならない。しかし、多くの人たちはそうではなくて、何かこう「社会がこうなんだから私たちもそれに合わせる」というような発想になっている。そういうことが非常にこわいわけです。(p282)


社会や他人に対する強い意思表示、政治的な運動に巻き込まれることが、当人にとって抑圧になる場合は、たしかにある。
しかし同時に忘れてはいけないことは、社会への怒りを表明すること、政治的な行動に加わりたいということもまた、人の自然な気持ちとして、欲望として、その人のなかにあるはずだということであり、つまりそれも「運動に全てを巻き込まれたくない」という気持ちと同様に、その人の「身体」の一部を形成しているからには、それを抑圧することもやはり否定的な振る舞いである、ということだろう。
政治的な行動が忌避されるとき、そのことによって抑圧されるもの、たとえば「怒りを表明したい」という切実な願いといったものが、おのおのの身体のなかにないかどうか、自問される必要がある。
自分の「身体」をなおざりにしない、置き忘れない、大切にするということには、そういう側面もあるはずなのである。
横塚たちの言葉が、ぼくに訴えかけてくる強い部分は、そこにこそある。


現在の社会では、政治的・社会的な「怒りの表明」が、人の自然な身体を抑圧するかのように語られる傾向が強いと思う。
だが、身体には、怒りや暴力に関わる部分が、たしかにある。そうしたものとしての身体を解放することも、人が自分の人生を大切に生きるためには、必要不可欠なことだろう。
横塚たち「青い芝」の行動は、ひとつには、そのことをぼくたちに語りかけていると思う。
ましてその表明は、「破壊のための暴力」、「破壊のための怒り」では、決してないのである。


母よ!殺すな

母よ!殺すな