克服すべきもの、それは

ご心配、ご迷惑をおかけします。
当方の勝手で、コメント欄を凍結していますが、折を見てできるだけ早く元の状態に戻したいと考えています。
以下は、最近コメント欄でのやりとりなどを通して考えたところを、まとまりもなく書き留めたものです。


先日も書いたように、現行の市場経済、というよりも市場原理の熱心な支持者は、自分たちが信じる方法を「制限なく」拡大していくことが、人類のための最大の善である、と主張する。
そこまで断言する人は少ないだろうが、突き詰めて言えばそういうことになってくるのではないかと思う。
たしかに、市場経済の仕組みが人類に一定の救いをもたらしてきたことは、歴史的・経験的な事実である(そして、ただそれだけのことである)と思うから、この方向を信じる人は、「人類のため」という目的に向かって、この方向へ進んでもらえればいいわけである。
ただ自分で言葉を選んでおいてなんだが、ここで「人類」という「類」が目的としてあがってしまうということに、ぼくなどは怖いものを感じる。そうした大目的のために、一人一人の生存が省みられなくなることを一番危惧するからである。


だが、そうは言っても全体の富や生産をおしあげる、少なくとも必要な程度を維持するということは必要であろう。そして、それは市場原理の信奉者たちがよく言うように、「とても難しいこと」なのか、つまり現在のこの社会の仕組みのなかでわれわれが生きている日常の「たいへんさ」「いっぱいいっぱいだ」という感じから、単純に演繹してよいものなのかどうか(したがって、労働の総量はまだまだ足りないのか)、その点も疑問である。
実際は、仕組みを本気で変えてしまえば、生産に注いでいる労力はもっと少なくても、みなの生存に必要な富の水準を十分維持できるのかもしれない。そういう主張をする人も多い。そうであればよいが、そうだったとしても、それはまたそれで、たいへんな勇気や労力のいる変革じゃないか、とも思う。つまり、そちらの方へ一足飛びに行ってしまおうとするということも、怖い感じはする。
現状では、少なくとも生産に関しては、いま富の総量の拡大や技術の開発にとって有利であるとされているシステム、それをある程度是認していくことが穏当であるように思われる。それ以上のことを判断する材料が、自分にはないからだ。


要するに、富や知識(技術)の増大のためには、現在の経済の枠組みは基本的に好都合なものであるように思える。そして、「富や知識(技術)の増大」という方向自体を否定する理由はどこにもない。
そこで、このシステムをうまく稼動させるにはなにが必要か、ということがひとつ重要になる。「市場原理」だけで十分なのか。それとも、市場原理の外部からの調整(修正)が肝要なのか?この点は、ぼくにはまだよく分からないが、どちらかと言えば、後者のような気がする。
ただ、このシステム(市場経済)がうまく稼動したとしても、それによって生産される富が、すべての人の生存(生命を含む)を維持するようにうまく分配されるのでなければ、最終的には意味がないと考える。「人類全体」が幸福になっても、その進歩のために不要と見なされたり、「全体のためにやむを得ず」犠牲にされて、そこから除外(排除)されてしまう生や生命が生じることを、許すことは出来ないからである。




ぼくは、現行の市場経済や、そこに組み込まれた科学技術のあり方だけでは、救えない人たち、零れ落ちる人たちが、不可避的に出ると考えている。出なければよいのだが、世界の現状を見ていると、とてもそうは思えない。
しかもその数が、率においても絶対数においても減少する保証はどこにもない。
そういうことを言わないとしても、そもそも市場経済自体には、富をうまく分配するという機能は備わっていないように思える。たしかに市場原理の働きによって、生産性の向上は果たされるかも知れぬが、富の分配は、個々の生存の尊重という観点から言えば、不十分な偏ったものになるだろう。なぜなら、市場原理を競争と考えると、競争において「敗れて」、市場に参入するための十分な富を得られない者が、かならず出てくる。むしろ、そうならなければ、「市場の論理」としては困るだろう。ところが、市場原理を最優先にするということは、この「参入するための十分な富」を持っている人たちを何らかの方法で救済することを行わないことを意味するだろう。そのような「非市場原理」的な介入というものは、市場の機能を損なうと考えられるだろうからである。


一方で、「そのような介入を行った方が、むしろ市場は円滑に動くのだ」という考えもありうるだろう。ぼくも、そういうことを考えるときもある。だが、その妥当性は明らかではない*1
いずれにせよ、「非介入の市場原理主義」の道をとるなら、多くの人が市場の仕組みからは脱落し、そこでは救われなくなることは不可避である。
「人類全体のためには、それも仕方ないのだ」と考えるのでなければ、その人たちを救済する方法がいるのである。つまり、市場経済とは異なる方法が。


つまり、「人類全体のためには個別の生存が犠牲になっても仕方がない」という考えをとるのでなければ、市場原理の推進を熱心に行うということは、「市場経済とは異なる方法」の必要性にも直面するということである。
市場原理自体が悪いということではなく、生産性を向上させるため(と称される)この方法は、「市場の仕組みのなかで救われず、生存の危機に瀕する人」を必ず生み出すわけだから、個々の生存を全体の犠牲にしないという原則をとるならば、「市場経済とは異なる方法」、富の再分配のなんらかの手法が、そこで要請されるはずなのである。


ということはつまり、「(市場原理に基づく)市場経済の拡大」のための努力と、「市場経済とは異なる」再分配の手法の創出という、二つの営みは、「個々の生存を尊重する」という目的のもとにある限りは、両立する、そして切り離せないものであるはずなのだ*2




ところが、ここにこの二つの、ある目的から考えれば(ぼくはこの目的がまったく妥当なものだと思うが)「協同」が当然であるし、それが要請されるはずの努力の方向を、互いに矛盾するものだと主張する言説がある。
その言説は、「類」(全体)の利益を言い、そのための「効率性」を主張する。人類全体に最大の富がもたらされるためには、市場原理の無制限な展開が絶対条件であり、市場外部的な「再分配」の導入などは、その足を引っ張るというのである。
「いまここで」零れ落ちている多くの「敗者」を救うことは、市場の足を引っ張ることになり、結果として(市場原理が無制限に展開された場合と比べて)より多くの「犠牲者」を生んでしまうであろう。だから、再分配の手法の導入は、不要という以上に罪悪であり、人の生存を尊重するという目的に反するのだ、と主張するのだ。


まず、事実として、このような主張に根拠があるかどうかは、疑わしい。
市場原理の暴走に警鐘を鳴らす意見は非常に強く、こうした方向をとったのでは、世界全体も、市場のシステムも瓦解してしまうだろう、という合理的な反論は、もちろんありえるだろう。
だが、もっと重要なことがあると思う。
それは、そもそも「全体の利益のために、個別の(いまここの)具体的な生存を犠牲にする」という論理を、われわれが選ぶのか拒絶するのか、ということである。


この論理に対する態度を曖昧にしたまま、「現在の死者や弱者を放置しない方が、将来の全体の利益のために合理的だから」という理由で、いわゆる「新自由主義」的な主張や政策に「合理的に」反駁することは、どうであろうか。
無論、そうした「合理性」に意味がないわけではない。合理性がなければ、社会変革のビジョンは破綻を招くだけだろう。だが、何らかの目的(価値判断)に付随しない合理性は、具体的な個別の生とは別のもの、つまり「全体」のようなものを維持するための「手段」に、簡単に変質してしまうものだ。


最も大事なのは、「いまここ」における自他の生存とその価値を全力で守ることであり、そうした現在の個別の具体的生の尊重にもとづかないような、どんな未来の「社会全体」の利益の構想も認めてはならないという判断を、われわれがはっきりと示す(そして、引き受ける)ことである。
それだけが、上記のような現代の「全体主義」の論理に対抗する基盤となりえる。


だが、こうした拒絶の意志は、われわれが何もしない状態で、おのずから湧き上がってくるものではないし、表明されるものでもないだろう。「全体の利益のために個別の具体的な生を犠牲にする」という論理に抗うことは、けっしてたやすいことではないというのが、今のぼくの実感である。
「いや、数値的に、それは証明されていない」という反論の基準、つまりどこか自分の外にある客観的なデータを拠り所とする以外にない、という弱さを感じる。
それは、この「全体主義」的な論理が、われわれの外部の社会をおおっているばかりではなく、われわれの内側をも深く支配しているからだろう。
それは、自分や他人の生の現実が置かれた苦境や悲惨さや不当さを、「仕方がない」といって否認したり忘却し、日々をやり過ごしてしまう処世の姿にあらわれている。実際の社会に生きるわれわれの自己意識は、むしろ上記のような論理のなかで構成されているのである。
克服していかなければならないのは、自他の現在の生のあり方をめぐる、この日々の生活の意識なのだ。
自分の、他人の生の苦境を、見ないふり、知らないふり、感じないふりをしないこと。
そういう実践のなかでだけ、上記のような論理を繰り返し拒絶する力は獲得されていくだろう。


もし客観的なデータが、「全体の未来の利益のためには、現在の犠牲者を見殺しにするしかない」ということしか告げない場合にも、そのために死んだり苦境に陥らざるをえない人々の具体的な生の姿を否認しないなら、それはそのことへの痛みをとおして、「変えられるべき現実」の姿を、より具体的に、またはじめて切実に、ぼくたちに思い描かせる原動力となるはずだ。


このように考えるなら、ぼくたちの批判がとらえるべき射程は、「新自由主義」の範囲よりもずっと遠く広いと思うのである。

*1:こういったことについては、別に考えたい

*2:この場合、「再分配」から見て「市場経済」が不可欠なのか?という疑問が出るだろうが、ぼくはそうであるように思う。