「身体」の回復

先日、『距離について』と題したこちらのエントリーで、以下のようなことを書いた。

人は誰でも、自分の身に関わることでしか真剣になれないということ。これはたしかに、真理である場合がある。こうした言葉が、たとえば深い挫折感とともに口にされるようなとき、それに返すべき言葉を誰も容易に見つけることはできないだろう。
だが、それは常に「真理」と主張するに値するような言明であるとは限らない。つまり、「真理」というほどの切実さに至っていない、たんなる事実のなしくずしの是認にすぎない場合が、多くあるということである。
あるいは、何かを覆い隠すための、見たくないものに触れずにすませるための欺瞞的な言明である場合がある。


いったい、「貧しい他人が死にそうだ」ということは、「私」にとって切実な問題ではないのだろうか。
私の身に関わることと、私にとっての他人の身に関わることとが、このように上っ面で切り分けられてすまされるとき、どうにも納得の出来ない感情が残る。
いったい自分というのは、そんな薄っぺらな、狭苦しい、お仕着せのような存在であろうか、という思いである。

しかし考えてみると、『人は誰でも、自分の身に関わることでしか真剣になれない』ということのなかには、たしかに切捨てるわけにはいかない側面がある。
それは、この「自分の身」というのを、文字通り自分の「身体」ととらえる場合である。
「身体」は、「肉体」と同じではない。それと深く重なるが、より広く、自分の存在の「抽象化できない被規定性」のようなものだともいえる。たとえば、民族的・性的・政治的なマイノリティーにとっては、また貧困者にとっても、そのような社会的存在であることが、自分の身体性、つまり「抽象化できない被規定性」であるということがありうるだろう。そして、そうした「被規定性」としての「身体」は、じつはぼくたち全ての人間が有している(担っている)ものだともいえる。
すると、この自分の(各自の)「身体」というものをどう引き受けるかということ、それぞれの「身体」から発して、それを通じて、そこから世界や他者にどのように向い、関わるかということは、まさに抽象化できない、なおざりに出来ないことである。
この意味でなら、『人は誰でも、自分の身に関わることでしか真剣になれない』という限定性には、否定し得ない、むしろ積極的な意味があると言えよう。
人は誰でも、自分の「身体」をなおざりにして、この世界のなかで生きていくことは出来ないはずだからである。


ところで、この「抽象化できない被規定性」としての自分の身体のなかに、すでに「自分にとっての他人」というものが、ある仕方で組み込まれているのかもしれない。
つまり、「自分」にとっての他人(社会性)の回復ということは、私の「身体」の回復というところからはじまるのであり、そればかりでなく、最終的に決してそこを越えないはずのものだと言えるのかもしれない。


以下の本を読みながら、そういうことを考えた。


母よ!殺すな

母よ!殺すな