『兵士デカルト』その3

第三章のある部分で、著者は「神は欺かない」と論じるデカルトの考えから帰結することとして、三つのことをあげている。

第一に、神の観点からは、「過つ能力」なるものは存在しないことになる。(中略)デカルトは戦争において過つという活動を為したわけではないのである。例えば人間を殺すことは人間にとっては罪や悪を為すことであるが、神にとっては、人間を分割する活動や人間に物体を挿入する活動である。よって、過つ能力、罪や悪を犯す能力は存在しない。第二に、神の観点からは、欠陥・障害・怪物なども存在しないことになる。(中略)ある個体が種の本性に照らして怪物と評価されることがある。しかし神は、種の本性を理念として、個体を存在させているわけではないし、そもそも種の本性なるものは人間によって作為された観念にすぎない。よって欠陥や障害はいかなる意味においても過ちではないし、いかに異常に見える個体についても、神はそれを肯定しているのである。そして第三に、神の観点からは、世界はそのあるがままにおいて「最善」である。神は、より以上の善を目的として、現在の世界を存在させているわけではないからである。よって神が、未来に実現すべき目的の下に、現在の世界を存続させているとすれば、そのような神は欺く神であり弱い神である。アウグスティヌス神の国、カントの理想、ヘーゲルの世界史、これらはすべて欺く神である。そして無思慮に神の目的を僭称する者は、このような欺く神に欺かれているのである。(p142)


著者による「生き残ること」という主張は、このような「神の観点」を参照してなされていると思われる。
魂として把握された生には、「欺かない神」が内在しているはずだからだ。
ぼくは、そうした「神の観点」を意識することが、生の現在を肯定するうえで強い効力をもっていることを認める。
実際、上にあげられた三つの事柄のうち、二番目と三番目は、「種」や「未来」といった目的のために現在の生のある部分を貶めたり侵害することへの、強い批判になっている。ここでは、現在の生のすべてが、生きていることそのことにおいて「最善」のものとして肯定されているといえる。
これは、たしかに強力で魅力的な思想である。
「神の観点」という、一見冷たく非人間的に思える思考が、逆説的にも人間の個別の生を救済し肯定するということはありうる。たいてい、それは制度と結びついてしか機能しないために、悲惨な結果を招くものだとしても、何らかの超越的な肯定の力の働きが、人々の生の現実を守るためには、必要なのかも知れないのである。
われわれは、超越的なものの介入を、一概に排除するわけにいかない。


だが、それでも問題は、この「超越的なもの」、「神の観点」の導入が、ほんとうに制度とは無縁な「力」として行われるかどうか、ということだろう。そのことは、何によって担保されるのか。
言い換えれば、「制度とは無縁だ」と主張するものの無実性は、どう保たれるのか、保たれることが可能なのか、ということ。
ここで、やはり気になるのは、上記三つの事柄のうちの、最初(第一)のものである。
つまり、「神の観点」からは、人が過つということはないのだ、ということ。
そこから、デカルトは次のような考えに到達したのだと、著者は書く。

デカルトが兵士の役割を演ずることを、欺く者は意志して望んでいただろう。デカルトは欺かれて過ったのである。しかしデカルトはそれでも善かったと言う。デカルトはその時にも善く生きたいと意志していたし、今も生き残っているからである。この生を、欺く者は奪えなかったからである。そして生を保存した力が、神と名指されたのである。この神に向って嘆く必要はない。(p149)


また、別の箇所でこうも書かれる。

過つことができたということ、罪を為すことができたというそのことが驚くべきことなのである。(p202)


神が内在する生命から発するところの自らの意志において行動する限り、いわば人間の観点からすれば過った行為であっても、それは「高貴」な行為である。
そこに一切の世俗的な価値秩序(たとえば、戦争より平和が尊い)を越える、「魂の力」にもとづく絶対的な善があるからだとされる。
これもたしかに「生の肯定」なのだが、「種」や「未来」を掲げる目的論的な思考を退けた上記の二つの「肯定」とは、どこか違うのではないかと思える。


ここには何かが欠けている。そのため、制度を超越していることによって(人にとっての)力を持つはずの「神の観点」が、ここではそれ自体一個の制度のように機能してしまっているかのように感じられるのである。


「神の観点」から見るなら、人は過つことも罪を為すこともないという視点の保持は、たしかに重要だろう。
それは、制度や価値秩序による支配から、人の生を守る、生の肯定を維持するために重要なのである。
だが、「神の観点」がそうした効力を発揮するためには、逆に現実の(世俗的な)制度への、また他人への、身体への、関わりが不可欠なのではないか、というのが、ぼくの直観である。
そのことによってだけ、「神の観点」が、もうひとつの制度に、つまり世俗性に墜する危険が回避されるのではないか。
いわば「魂」の次元にとっての「手段」であるにすぎない具体的な事ども、つまり現実の制度や、具体的な他人や、固有の身体といったものとの関わりが、逆に「魂」の純粋な働きを保障するのではないか。
本書の論には、そのことへの配慮が欠けているという印象を、幾分か受ける。


本書の最終部では、次のような言葉が出てくる。

制度宗教は祈りを、聞き届けられる祈りに変質させてしまう。(中略)倫理学もまた祈りを世俗的な行動規範に変質させてしまう。これに対して形而上学は神が変わらないことを知っている。世俗的な祈りや行動に全く関係なく、神は変わらないことを知っている。形而上学は〈聞き届けられることを求めることのない祈り〉を知っているのだ。(p258)


〈聞き届けられることを求めることのない祈り〉とは、たとえば「隠れキリシタン」の祈りでもあったということだろう。
だが、苦難の経験の後に、制度や規範を作り続けようとした人たちのなかにも、その「祈り」はあったはずだと思う。


(了)


兵士デカルト―戦いから祈りへ

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