メーデーに寄せて、みたび労働と非労働の問題を論ず

はじめに、きのう書いた記事トラックバックをいただいている。
内容は、内田樹氏のブログのエントリーについての、非常に明晰な批判である。

http://araiken.exblog.jp/1893425

ぼくは、こういう論理的で平明な文章というのが書けないんだよなあ。
ぼくも以前に、内田さんの「中間的共同体」に関する議論に対する違和感をこのブログに書いたが、いちゃもんをつけるような言い方しかできなかった。
トラックバックをくださった記事では、それが明快に批判されている。
内田さんの「中間的共同体」論というのは、現状の競争社会のシステムを『もう少しソフトなものにして、国民をうまくシステムに軟着陸させ』ようとする言説であったのか。なるほど。
ぼくも大雑把な印象として、「内田批判」の文章や発言がもっとたくさん出てきていいのではないかと思う。いわゆる「リベラル・ブログ」が、「内田支持」一枚岩になってしまうのは、考えものだ。
また、こちらのブログの他の記事も少し読ませていただいたが、非常に充実した内容で、特に、今話題になっている『不登校は終わらない』に関するエントリーは、たいへん勉強になりました。
とても魅力のあるブログだと思います。


以下、きのう書いたことの続き。

「佐野の無礼は許せるが、佐野の無礼をおまえが許すことは許せぬぞ。」
                           中野重治「歌のわかれ」より

赤毛連盟に入りたかった

新自由主義、自己責任、労働者の経営者化。
前回も書いたように、この流れはアルバイトやパートの人たちにも及んでいる。
ここで、「仕事のやりがい」とか「労働の誇り」というテーマが出てくる。工場でアルバイトをしていても、「歯車になりたくない」という気持ちは当然多くの人が持つだろう。
だから、個人の裁量と能力に多くが委ねられ、成果主義の賃金が導入されるのはいいことだ、みたいな論理が、バイトの現場でも出てくる。
もちろん、頑張った人が多くお金を貰うのは当然だと思うが、本当はそれは経営側の口実で、全体としては人件費が削減され、要するに下のほうが多く削られて、上位の人の取り分が少しだけ上がる、ということになっているのではないか?しかも、その上位の人の労働量は、確実に法外に増大しているはずだ。それで体を壊しても、アルバイトには補償もない。
それも企業自身が生き残るためには仕方がないというのだろうか。だがそもそも、各企業は、自ら好んでそんな過酷な競争を行っているのか。このへんが、納得がいかないのだ。


ぼくなどは、バイトをしていても、正直「やりがい」はある程度でよく、収入も多いに越したことはないが、それよりも労働量など負担の少ないことが好ましい、というタイプだ。要するに、労働にあまり人生の時間をとられたくない。「労働に対する誇り」は、それほど持てなくてもよい。もっと言うと、「労働」そのものに精神的な価値を求めるということが、ぼくの場合にはない。
ぼくの場合、上の工場のバイトの話で言うと、「歯車」のような労働であっても、それが楽で金がもらえるのなら、不満はないのである。子どもの頃のぼくの理想は、シャーロック・ホームズに出てくる「赤毛連盟」の仕事だった。あれは、きれいな赤毛をしているというだけの理由で雇われ、午後の短い時間、ビルの一室で百科事典を書き写すだけで高収入が得られるのだった。素晴らしい仕事だ。
「やりがい」を求めて頑張る多くの人たちのおこぼれに預かるような形で、そこそこの収入が得られれば、まあそれでよい。欲や妬みがないわけではないが、もっと大事なことが他にあるように思う。

「やりがいのある労働」と「闘争」の原理

いや、こうは書いたが、ここはすごく難しい問題だ。
現実には、人は好むと好まざるとに関わらず、生きるために働くわけだから、労働がその人にとってどういうものか、ということは重要である。短時間働いただけで暮らしていける収入が保証されればいいが、いわゆる「中間的共同体」やネットワークが崩壊している日本社会においては、個人が「最低限」の生活をしていくためには、長時間のかなりきつい労働が強いられる、というのが実情だろう。「年をとって働けなくなったら、親戚が面倒を見る」というような社会ではないから、老後のことを考えれば相当な貯蓄もしておかなければならないからだ。
そもそも、年をとってくると、そんな「きつい」仕事の口さえ見つけられなくなるのが、今の現実だ。これまで書いてきたように、現在の日本経済のシステムでは、「歯車」になるということは、「欲望を我慢すれば、のんびり楽をして生きていける」ということではなく、消耗して使い捨てられるまで働かされるか、それ以前に「処分」されるか、ということなのだ。
となると、「どうやって雇用を作り出すか」また「どうやって社会的ネットワークを作り上げていくか」という現実的な課題と同時に、「やりがいのある労働とは」という、やや哲学的な問題も考慮されざるをえない。「やりがい」の感じられない労働に人生の時間の大半を費やして命を永らえる人が大半という社会は、やはり「非人間的」であることは間違いなかろう。


少なくとも労働基準法の範囲内で、一日のうちの何時間かを労働に費やすことで生きるしか仕方がないのであれば、労働に、いかに充実感や「やりがい」を付与するかというのは、やはり重大な問題である。
このとき、「プライド」や「競争心」といった社会的な感情が、人に「やりがい」をもたらしてくれることは事実である。人間には誰でも、「他人に認められたい」という欲望があるはずで、カントも言うように、こういう世俗的な欲望や競争心があるから、人間の社会というものは成り立ってきたのだ。
また「仕事に精神的な価値を見出したくない」と考えるぼくのような人間でも、何か他の部分で、こうした欲望や競争心が充足されることを求めるからこそ、社会のなかで生きているのだといえるだろう。たとえば、アートとか、家庭菜園とか、こうやってブログを書くとか、パチンコ屋に通うとか。
だが、こうしたものは、すべて所詮フィジカルな作用に過ぎないのではないか、とも思う。要するに、社会的な成功や評価によって自己充足感を得ないでも、坑うつ剤の様な薬物によってそれが得られることは、現在ではよく知られている。昔のお坊さんとかは、それをさして「むなしい」と言ったのであろう。
「プライド」や「競争心」が、これまで人間の社会性や文明を支えてきたからといって、これらの「道具」にいつまでもしがみついている必然性はないであろう。第一、これらの道具は、闘争を常に生じさせ、大量の敗者と怨恨や復讐の感情を、この世に生み出し続けてきたのである。
これからの社会は、こういう過剰な「闘争」の原理から、もう少し自由になることを考えるべきだろう。


つまり、「労働の誇り」や「競争心」といった「闘争」原理的な感情の要素に支えられなくても、「やりがい」や「楽しさ」を見出せるような労働のあり方、及び社会のあり方が模索されるべきだ。
とりあえずはそう思う。

怒りをつなぐ

だが同時に、こういうふうにも考える。
新自由主義」の名の下での競争原理の「公定イデオロギー」化と、正規・非正規を問わず人々が低賃金で長時間働くことを強いられる産業社会の構造は、ぼくのような「のんびり楽をして生きたい」人間にとっても、やはり許容しがたいことである。
だいたい、「ひきこもり」や「ニート」は強制労働させろというのが新自由主義の論理なら、新自由主義というのは「社会保障のない全体主義体制」みたいなものなのか?
ここでいう「自由」というのは、一体なんなのか?


こうした「競争原理」*1を掲げた全体主義的な体制に組み込むために、人々を従順にさせ無力にさせるのが今の社会のあり方なら、むしろ必要とされるのは、それに抵抗するための「闘争」の力の復活ではないか。
いま、人と人とが結びつくために欠けているもっとも重要なものは、許しがたい現実に対しての「怒り」の発現ではないか。
ぼく自身、このブログの開始当初、若者の「暴力性」についての肯定的評価の道を探ろうとしていたが、その背景にあったのも、こうした思いだった。


闘争や「怒り」の感情を、「競争原理」のような仕方でシステムに回収されることなく、人間同士の関係のあり方を回復する方法として取り戻していくことが、重要な課題だと思う。
ベンヤミン風にいえば、「法措定的暴力」に陥らないような、「怒り」の発現は、(神にとってばかりでなく)人間にとってこそやはり重要なのだ。


ここで、労働運動と組織の問題が出てくる。
29日の催しの報告のなかで、交流会のときに「若者たちの怒りをつなげる」ことが重要だ、という声が聞かれたことを書いた。多くの若者たちのなかに、やはり「怒り」は潜在しているはずだと、ぼくも思うのである。ただそれは「怒り」の形をとる前に、「失望」や「絶望」の形をとって、自他への過剰な攻撃性となって発散されてしまっているのではないだろうか。
現在の社会システムに対する抗議と抵抗の装置として、労働運動が果たすべき役割は大きいと、ぼくも認める。だが、これまでの労働組合のような形で、集団としての労働者の権利獲得や労働条件の改善といった要求を最優先するという仕方では、つまり組織や集団を最優先する運動のあり方では、個々の労働者(非正規労働者を含む)の「怒りをつなぐ」ことは、もはや難しい。
労働や生活の現場において降りかかってくる「無礼」に対して発現する個々人の怒りを、組織や集団の権利獲得の手前において救い上げ、それを支えるという姿勢がはっきりあらわれてこなければ、労働運動は多くの若者の信頼や共感をますます失っていくだろう。

*1:これはイデオロギーであって、上記の「闘争」の原理とは別物である。