距離について

前回に続いて、選挙報道を見てて考えたこと。
今回は同じ選挙でも、アメリカの大統領選の報道を見ていて思ったことである。


民主党ではヒラリー・クリントンの善戦が伝えられてるが、陣営が多くの支持を見込んでいるのは、中間層と呼ばれる人たちであるという。ブッシュ政権のもとで、この人たちの生活が極度に苦しくなり、不満をつのらせているということのようだ。
中間層というのは、富裕層でも貧困層でもないということだろう。
先日ブックマークしたこの記事によると、アメリカには満足に食事の出来ない人が3500万人以上居るという。しかもこの数字には、膨大な数居るはずの「ホームレス」の人たちは含まれていない。
http://sankei.jp.msn.com/world/america/071115/amr0711151112008-n1.htm
この人たちを「貧困層」と考えると、そこまではいかずとも富裕でもない中間的な人たちがたくさん居て、その人たちの経済状況が悪化してきたので、ブッシュ政権ネオリベ的な路線への批判が高まり、ヒラリー候補の主張に支持が集まってるのだという。
テレビを見てたら、この「中間層」の人の一人は、怪我をしても医者にかかることも出来ないということだった。公的保険制度のないアメリカでは、「中間層」といっても、いつ生死の瀬戸際に転落してもおかしくないのかも知れない。
それにしても、こういう報道を見てると、割り切れない気持ちが残る。


それはあまりに根本的なことなのだが、たとえば経済の悪化ということ、あるいは社会政策の決定的な不備(セーフティーネットの欠如など)ということが、(多くの人にとって)「自分」の身に降りかからなければ批判の対象(問題)にはならないのか、ということである。
中間層の人たちにとってブッシュ政権の政策が深刻な害をもたらす以前から、貧困層の人たちはすでに困窮したり死んでいったりしてたはずだ。経済がそれほど悪化しない間は、その人たちのために社会のあり方を変えていこうという声はあまり上がらず、最大の票数を持つ中間層の人たち自身の身にその災厄が降りかかってはじめて、政治的なテーマ(イシュー)となる。
つまり、他人事であるうちは、どんなに深刻な事態であっても切迫した問題とは見なされず、多数の人たちにとって「我が身のこと」となって初めて政治が動く。
それが当たり前のようになって、選挙戦もすすめられてるわけだが、それでいいのか、という気がする。
これは別にアメリカに限らず、日本でも、どこの国でも大方はそのようであると言われるかもしれないが、決していいことではない、根本的にどこか間違ったことであると思う。


人は誰でも、自分の身に関わることでしか真剣になれないということ。これはたしかに、真理である場合がある。こうした言葉が、たとえば深い挫折感とともに口にされるようなとき、それに返すべき言葉を誰も容易に見つけることはできないだろう。
だが、それは常に「真理」と主張するに値するような言明であるとは限らない。つまり、「真理」というほどの切実さに至っていない、たんなる事実のなしくずしの是認にすぎない場合が、多くあるということである。
あるいは、何かを覆い隠すための、見たくないものに触れずにすませるための欺瞞的な言明である場合がある。


いったい、「貧しい他人が死にそうだ」ということは、「私」にとって切実な問題ではないのだろうか。
私の身に関わることと、私にとっての他人の身に関わることとが、このように上っ面で切り分けられてすまされるとき、どうにも納得の出来ない感情が残る。
いったい自分というのは、そんな薄っぺらな、狭苦しい、お仕着せのような存在であろうか、という思いである。


そう思うとき、ぼくは自分という存在がひどく縮減されてるように感じてるわけだが、考えたいのは、ここでは何が失われているようであるか、ということだ。
それは、私と他人との重なり合い、あるいは同一性の喪失、ということだろうか。「私があなたではありえない」ということへの失望が、そこで感じられてるのだろうか?


今日ふと思ったのは、それはむしろ逆であって、ここで失われている(奪われている)ように感じられるのは、他人との「距離」ではないか、ということだ。
自分という存在に本来内包されているはずの、私と他人との「距離」というもの、「距離」を構成するツールが失われている(奪われている)ために、「自分」はこんなにも縮減されて、薄っぺらになってしまっているのではないか。
そこでは、「私にとっての他人」という現実性がつかみとられないために、すべての事柄は「私の問題」と「他人事」とに二分されてすまされることになる。そのことへの渇きから、たとえば人は時に、過剰に他人との同一化を求めてしまったりもするのではないか。
回復されるべき大切なもの、かけがえのない何かは、「距離」に関わっているように思えるのである。