『トランシルヴァニア』

ラストシーンまで見終わったとき、自分がそれまでスクリーンに何を見ていたのかはじめて分かってくる、あるいは逆にそのことがあやふやに思えてくるような映画がある。

http://www.net-broadway.com/nsw/cine/transylvania/


トニー・ガトリフ監督の新作である『トランシルヴァニア』は、そのラストを見るまでは、ぼくにはまったく退屈な映画だった。
ガトリフという人は、ロマ(ジプシー)の血を引いている人らしいが、それに関係なく、題名の「トランシルヴァニア」や「ロマ」というテーマにあまりにも寄りかかってしまっていることが、この作品の致命的な弱点になっている。
そこに描かれているのは、たとえば想像上の「トランシルヴァニア」を越えるものではない、という印象がぬぐえない。
ストーリーのなかで、何度か面白くなりそうな、つまりは現実の「トランシルヴァニア」と拮抗しそうな場面があるのだが、結局そちらには行かず、想像上の「トランシルヴァニア」だけが描かれ続ける。
コミカルなシーンや、力強さを感じさせる挿話がありながらも、ひどく冗長な映画だという印象をぬぐえなかった。


だが、最後のシーンは、非常に印象深い。
そこまで来てはじめて、この映画で監督が描こうとしていたもの、追求しようとしていたものが、もともと「想像上のトランシルヴァニア」だったということが分かるからである。現実のトランシルヴァニアという土地を舞台にし、その土地で(おそらく)ロケを行って撮られてはいるが、自分にとってはそれが「想像上の」場所でしかないことを、この作家はよく知っているのだ。
そのうえで、その自分の想像のなかの「トランシルヴァニア」の救済をとおして、現実のトランシルヴァニアの、またしたがって世界全体の救済への糸口を得ようとして、この映画が作られたのだ。
この関係はおそらく、「ロマ」というテーマに関してもあてはまる。


かつては、現実において解決が求められるべきであるのに、そのことを先延ばししたり、すり替えたり、隠したりするための方途として「想像」の世界というものが存在した。
だがいまや、現実と想像との関係は、大きく変わった。
人は、自分のなかの「想像」の世界の救済と無縁な形では、現実の世界の救済にもはや関われないという事実、言い換えれば、「想像」というものの枠のすっかり外側には自分(たち)の生の現実をもはや見出せなくなったということを、薄々、あるいは痛切に自覚するようになった。
この現実は変革可能なのだが、変革された後もなおわれわれは「想像」によって隔てられている。
これは少なくとも、近代的な認識とは別のものだろう。



この映画は、そういう現実への苦い熱情に支えられた作品ではないかと思う。