『兵士デカルト』その2

前回のエントリーの最後に、デカルトの思想(生き方)を「隠れキリシタン」に重ね合わせる著者の見方は、「抵抗」や「服従しないこと」よりも「生き残ること」を上位の価値として位置づけようとするものではないか、と書いた。
しかし、ふつう「隠れキリシタン」の伝承というのは、不服従とか不屈の抵抗といった物語として語られるものなので、こうした表現は奇妙に思われるだろう。
だが、著者がここで描こうとしている「逃走」とは、制度(体制)に対する「不服従」や「抵抗」という内面の物語からも逃れ出る、ということである。「不服従」や「抵抗」も、人の生を制度が作り出す価値秩序のなかに組み込んでしまう、別様の仕掛けであると考えられるからだ。

服従」とは外面的行動に関わる概念であって、それは、法と慣行に外面的には逆らわないこと、法と慣行を現状のままで放置することを意味するものでしかない。だからといって私は、デカルトが内面的に法や宗教に抵抗していたとか、それらを否定していたと示唆したいわけではない。服従という概念においては、内面がそもそも問題にはならないと言いたいのである。(p31)


つまり、(デカルトや)「隠れキリシタン」が体現した「生き残ること」とは、抵抗によって内面の価値を守り続けるところに意義が生じるものではなくて、生きることそのことに無比の意義が内在することを見出すということである。
ここで言われているのは、そういうことであると思える。


それはよいのだが、「権力への抵抗」ということに関しては、それはこの考え方からすると、本質的な重要性をもたないということになろう。「法と慣行」のようなもの、たとえば制度宗教や国家による抑圧のようなものは、「放置」してしまえばよい。なぜなら、それに「抵抗」すること自体が、別様の罠にはまることなのだから。
生にとって、人間にとって本当に大事なことは、「服従か、抵抗か」という区分とは別のところにある。
すると人間は、制度の改編に携わるようなこと、なにか政治的な行動を行うというようなことは、むしろ忌避すべきである、ということになるだろう。
実際、別のところでは、このように書かれる。

ここでデカルトは公共体を当てにしていない。デカルトは神を認識して神を愛する人間の絆だけを当てにしているのである。(p174)

哲学者は公共体に言うべき言葉を持ってはいない。(p175)


これは、あまりにも非政治的な態度だと思える。たんに非政治的というよりも、人間が生きている現実のある層に対して、許しがたいまでに冷淡であるという印象が残る。
実際、本書を読み終わってみて、著者の考えには何か重大なものが欠けているのではないかという印象を、ぼくは受ける。
それは、ぼくが著者が批判する「近代的」な価値観を内に抱いているからかも知れない。
だがともかく、「生を肯定する」かに見える著者の思想のなかに、強い抵抗を感じる部分があることは事実である。
しかし、こうした著者の一見非政治的な態度(明らかに、『千のプラトー』のドゥルーズ=ガタリとの同時代性のようなものがある)について、さらに考えてみよう。


さて、上記のような非政治的ともとれる態度の底にあるのは、世界がある意味で閉じているという意識、抵抗や批判の根拠と見なされる地点がこの世界の外に想定されるなら、それ自体が罠(仕掛け)であるのではないかという、消すことの出来ない懐疑の意識であるだろう。
著者のデカルト理解は、こうした意識と切り離せないものであると思う。
著者は、生を外部から客観的(傍観者的)に批判したり分析したりするような立場がありうるという考えを批判するのである。


デカルトは、「炉部屋」の思索において自らの古い思想を一掃する「純粋戦争」を完遂しようとした。だが、その営為が突き詰められることによって、やがてそのように書斎のなかで生を考え分析する自分自身の思考を懐疑の対象とせざるをえなくなった。
考えること、研究することの安定した位置が疑問に付され、思考によってえられる内容自体が神に欺かれたものかもしれないという、ぎりぎりの懐疑のなかに投げだされたのである。そのとき、たとえ神に欺かれていたとしても、欺かれながらも「思惟している自分」を確かなものとして掴む。
重要なことは、ここでデカルトが学問や「方法」に先立ち、それを可能にするような「私の実在」を、思惟という行為をとおして見出したということである。

欺く神は私が数学的に思考するたびに欺いているかもしれない。しかし確かに私は実在する。とすれば、私の実在を、法や数学が制覇できないことも明らかである。私が実在して初めて学問は始まるからである。(p132)


デカルトは、自分自身の思考を疑うほどの、哲学的にいえば哲学という学問の「方法」自体を疑うほどの懐疑の徹底をとおして、思考を可能にする「私の実在」、「私の生」の現実性にはじめて触れたといえるだろう。
本書の中で、デカルトにおける「私の生」という事柄の重要性を強調するくだりは、非常に興味深いものである。

(前略)方法的に制覇することのできない〈私の生〉、論理学に回収して表現することのできない〈私の生〉、そして方法や論理学を始めるためには予め始まっていなければならない〈私の生〉、これを省察するデカルトは軍人ポロの誤読から学んだはずである。
ところが、デカルト心身二元論なるものからして、あるいは身体の存在を否定する懐疑なるものからして、デカルトにおいて〈生きていること〉は主題にはならないとする通念がある。(中略)しかしそもそも、生きていることを身体によって把握するべきだと考えること自体が、ひとつの先入見でしかない。この点では、〈身体=物体〉とも精神とも区別される魂に、感覚・想像・思惟の原理という地位を付与した上で、それを身体全体に広がる繊細な〈物体的なもの〉とするスコラ哲学の三分法の方がはるかに優れている。そしてデカルトのいわゆる二元論における思惟は、このような魂をも含んでいると解するべきである。(p130〜131)


こうして、デカルトにおける「生」の把握は、「思惟」をとおして、身体(器官)よりも「魂」にこそ強く結びつくものであることが示される。


そして、このことが「私の生」と「神の力」とのつながりを示すものであることが示されるのは、本書の第5章においてである。
そこでは、思惟する私が、無限なものによって先立たれなければ存在し得ないと言うデカルトの証明が説明され、その存在によって生存を維持され、「生かされている」私が見出されることになる。
著者によれば、その発見は、独我論の承認からはじめて、その徹底において必ず直面する『私と宇宙の特異性』(p220)との出会いによってもたらされるものである。

他人の存在が不確かなこと、他人の言葉が嵐の声にしか聞こえないこと、他人に言葉が届かないこと、動物の魂を忘れ去ること、一言でいえば、人生が夢まぼろしのごとくであるということ、こうした経験に共通する何かを独我論は言い当てているのではないか。(p215〜216)

独我論はあらゆる事物を観念で表象しようと徹底すればするほど、かえって私と宇宙を取り逃していることを思い知らされることになる。(p219)

私は生かされている。私を生かしているものは、最高に完全で無限にして一なるものであると知られた。(p241)


ここで、思惟する私は、私の存在に先立ち、それを可能にし、私の生存を維持している他者としての無限(神)に出会うわけだが、それは「この世界は閉じられている」という懐疑、私は「欺かれている」かも知れず、そうではないと定めうるような、真偽や正誤を判断する客観的な(近代的な)基準など存在しないという懐疑の徹底をとおして、はじめて見出される他者なのである。懐疑の徹底の果てにだけ、はじめて見出されるような他者。
著者は、「私を生かしている」この他者に、神のみでなく、死者の姿を重ねている。
いずれにせよ、「懐疑の徹底」という隘路をたどらなければ、われわれは「私の生」の現実に、したがって「他者」に出会うことが不可能なはずだという認識が、ここにはあるはずである。
そして、この「私を生かしている」他者であるところの神の力が、身体を通して世界に働きかけるのであるとされる。

それでも私は神の本質としての力の様態である、とデカルトは言うことができたはずである。魂の力は宇宙の力の様態である。(p253)


ここに、「魂」の名でとらえられるものとしての生命をとおして、「私の生」と「宇宙の力」とは重ねあわされることになる。
「生き残ること」そのことが無比の意義をもつという著者の主張は、おそらくこのようにして形而上的な意味を帯びるのである。


(続く)


兵士デカルト―戦いから祈りへ

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