『兵士デカルト』その1

兵士デカルト―戦いから祈りへ

兵士デカルト―戦いから祈りへ

(前略)古いものを戦争によって破壊し尽くすこと、これが兵士デカルトの期待であったはずである。このような感性や思想が魅惑的であることを認めておかなければならない。
 しかしそんな期待は必ず裏切られるであろう。(後略)(p25)


坂口安吾に代表されるように、「戦争の時代」とか「秩序以前の時代」としてとらえられる近世の体験や思想を、近代における秩序や公共体の形成に対比させて肯定的にとらえる考えというものは、西洋のみならず日本にもある。
本書も、そうした観点をとっていることは、最初の部分で強調されている。
カントや(徂徠のような)江戸の儒学者のように、戦争を傍観者として眺めて論評したり批判したりする<大人>の態度が批判され、戦争に魅せられて兵士として赴こうとする<若者>の情念と、戦争を生き延びた(生き残った)<老人>の沈黙に秘められた知恵にこそ、人間として学ぶべき多くのものがあることが示唆されるのである。
若い頃兵士であった経験をもつデカルトは、悪しき古いものの「破壊」を求めて戦場に赴こうとしたその情念を保ち続けて、後半生は「炉部屋」における思索による「純粋戦争」、ルソーの言う「一撃の戦争」を継続し、突き詰めたのだ。これが、本書が提示する基本的な見方である。



ところで安吾は、信長や朝鮮でも戦った戦国武将たちを主人公にした小説を書いたが、同時にキリシタンの戦いと弾圧にも強い興味を示した。
同様に本書のなかでも、「隠れキリシタン」の存在が何度か参照されている。それは、「生き延びる思想」、「殉教の思想の廃棄」として捉えられている。
戦争に赴こうとする情念の激しさを肯定することと、「生き延びること」「生き残ること」を唯一の「栄光」とする思想とは、どのように結びつくのだろうか?
そのことは、とくに第4章のなかで論じられている。
デカルトは、女を犯そうとする乱暴者のなかにも「愛の本質」は「分有」されているのだ、と考えたのだという。
(愛のような)情念は、その激しさのゆえに人を誤らせることがあるが、情念自体が悪いわけではない。むしろ、人を暴力や戦争に駆り立てるような「情念の威力」を否認することは、悪しき共同体の思想、制度宗教や国家や権力の思想であるとされる。

逆に言えば、戦死者や殉死者は何かを真に完全に愛していたのである。この情念の威力を否定したり貶めたりする権利は、生者にはない。(p194)


そして、そのことを踏まえたうえで、「神への愛」の特異性が語られる。

問題は神への愛である。それはもっとも完全であるからには、自己の生命を直ちに差し出すことを求めるのであろうか。そんなことはないのだ。(中略)とすれば、神を愛することの結果は、生を愛すること、死を恐れないこと以外には何もない。だから、君主や国のための戦争から逃走することは世俗的には恥辱であっても、生き残ることは人間の栄光である。君主や国のために死んだものは完全な愛を知っていたが、しかし神への愛は知らなかったのである。(p194〜195)


つまり、隠れキリシタンは、神への愛(生き残ること)を貫くために制度宗教そのものから「逃走」した人々だ、ということになろう。


情念は、たとえば戦争よりも平和の方に価値がある、というような世俗的な価値の秩序を転倒・混乱させてしまう力をもっている。その力は、人に制度による秩序が転倒可能であること、というよりもそこからの「逃走」(ドゥルーズ=ガタリ)が可能であることを教え、「魂の力」としての「自由裁量」への道をひらくものである。
たとえば隠れキリシタンが選んだ生き方は、そしてデカルトの権力(体制)に対する関係も、そのようなものであったとされる。
こうした著者の見方は、「抵抗」や「服従しないこと」よりも上位の価値(栄光)を、「生き残ること」のうちに見出そうとする思想と言えるかもしれない。


(たぶん、「その2」もあり)