『自由からの逃走』

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版


ファシズムを扱った有名な書物の多くがそうであるように、この本も戦前、しかも大戦中の1940年代初めに出版されている。
大戦が枢軸側の敗北に終わり、間もなく冷戦の時代が始まると、世界的にはファシズムというテーマはやや「過去のもの」として扱われる傾向になったのではないだろうか?少なくとも、僕はごく最近まで、そう思っていた。まったく迂闊とした言い様がないことだが。
そうした「迂闊さ」がなぜ生じるかも、この本が語っている重要なことであるとも言える。


フロムのファシズム分析の極めて重要な点は、ファシズムを民主主義や資本主義社会の日常から切り離して、異常な絶対的な悪のように論じるのではなく、それが資本主義社会の構造から半ば必然的に生じてくる現象に他ならないことを明らかにしている点である。フロムの批判は、資本主義や民主主義の日常を生きるわれわれ自身の生き方にこそ向けられている。
ただ、それではなぜファシズムが生じやすい社会(国)と、そうでない社会があるのかという疑問が生じるが、そこでフロムが提唱しているのが「社会的性格」という概念だ。これについては特に最初の章と、「性格と社会形成」と題された付録の文章で詳述される。
経済的条件の変動にあたって流布されるどんなイデオロギーも、それにうまく合致するような社会的性格を、その社会が有していなければ、受容され深く根付くということはないと、フロムは考える。
民主主義が容易に根付かない社会というものも、ファシズムがしばしば席巻してしまうような国というものもあるものだというのが、フロムの「社会的性格」(社会心理学)の議論である。
これは、われわれにとっては必読のものという他ないだろう。


さて、フロムは、人間が社会や文化を形成していく原動力のようなものとして、「自由」に根本的な価値を認める。

性格の発達は基本的な生活条件によって形成され、生物学的な固定した人間性というものは存在しないが、人間性はそれ自身一つの力学をもっていて、社会過程の進化における積極的な要因を形成している。(中略)自由と幸福を求める人間の犯すことのできない権利は、人間の生まれながらの性質、すなわち生きようとし発展しようとする傾向や、歴史的進化の過程のなかで、かれのなかで発達した能力を表現しようとする傾向に、もとづいている。(p318)


だが、こうした自由を求める人間の営みは、資本主義の運動を引き起こすことによって、人間が「第一次的な絆」によって宇宙と深く結ばれていた中世的な世界の安定を崩壊させ、人々を孤独と無力感の中へと追いやるものでもあった。
そこで人々は、この崩壊と喪失を直視し受容して、新しい形での自我の実現を目指すという困難な選択(フロムはその為の社会を、「民主主義的社会主義」とも呼んでいるが)をするのでなければ、孤独と無力感から逃れるために、他者への支配や服従を基調とする依存的な人間関係へと逃避することによって、代償的な安定と満足を得る道を選ぶことになる。
この後者の選択が、フロムが「権威主義的」と名付ける人間関係と社会のあり方であり、その極端な形態がファシズムなのである。


フロムは、ヨーロッパの歴史を振り返って、この権威主義による「自由からの逃走」の傾向を大きく助長したものが、ルターやカルヴィンによる宗教改革の思想と運動だった、という見方を示している。
フロムの指摘する宗教改革の大きな問題点は二つある。
一つは、上述したように、それが道徳という個人化・内面化された宗教的権威への服従の精神を、人々に植えつけたことである。

こうして、ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅却とを要求した。ルッターの「信仰」は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点をもつ解決方法である。(p90)

フロムは、ルターやカルヴィンの信仰の根底には、こうした権威主義が横たわっており、それは本当の精神的安定をもたらすものではないから、際限ない信仰心や道徳性の確認という強迫的な性格を生じると、書いている。この強迫的な性格が、資本の蓄積の際限のない追求という形で、資本主義の(いびつな)発達をも可能にしたのである。
もう一つの問題点は、それが主に中産階級の信仰だったことに関わっている。
中産階級は、資本主義による社会の激変に直面して、農民戦争を志向した農民や下層階級のように真に「新しい社会」(第二次的絆)を作ろうとするのではなく、むしろ敵対性を抑圧することで社会秩序を維持しようとした。新しい社会の形成につながる階級的な敵意のようなものは、抑圧されて内面に向けられ、道徳を媒介とした権威への服従の心理を育んだ。そのためのイデオロギーとなったのが、ルターたちの思想だったのだ。
そして、抑圧された階級的な敵意は、その教えの道徳的な峻烈さという形に転化されたと、フロムは見る。

人間のうえに絶対的な権力をふるい、人間の服従と卑下とを要求するこの専制的な神の概念は、中産階級自身の敵意と羨望とを反映したものである。(p104)

危機に直面した人間(自由)が本来向かうべき方向を直視できずに自らを抑圧(逃避)した時、その人間の行動は権威主義的であるとともに強迫的かつ攻撃的なものとなるというのが、本書でフロムがくり返し書いているメカニズムである。
資本主義の発展は、この生の本来性への逃避から生じる強迫的な経済行動(資本蓄積)の結果であり現われでもあるのだ。


ルターやカルヴィンの思想によって内面化された権威主義(支配と服従)のイデオロギーは、資本主義の急速な発展を可能にするとともに、その強迫的な性格を決定づけた。
人間性を犠牲にして利潤を追求する、資本主義社会のわれわれの生き様は、孤独と無力感の中にあって、真の自我の実現を可能にするような社会の形成に向かうことが出来ず、強迫的な行動へと際限なく逃避を重ねるしかない「弱さ」の現われである。
そこでは人は、自分をも他人をも商品のように考えることしか出来ず、人気(価格)によって存在の価値が決定されるという不安定さに捉われ、真の安定や自我の実現を阻まれたままである。
資本主義社会に従属して生きる者は、最善の場合でも、良き歯車としてしか自分の価値を感じられないという、根本的な存在の不安感に曝されているのだといえる。

資本を多くもった人間は重要な歯車であり、資本をもっていない人間は、無意味な歯車である(p127)

この恒常的で昂進する不安感が、場合によってはファシズムという極端な形態の根ともなるのである。


第五章の「逃避のメカニズム」では、フロムが「権威主義的性格」と呼ぶ、このファシズムの人間類型の基礎ともなるような心理の傾向が詳しく分析される。
それは、他人を攻撃したり支配しようとするサディズム的な現われと、他人や権威にすすんで服従し自分を奉げようとするマゾヒズム的な現われとの二面を持つが、それらは別のものではなく、権威(支配と服従の原理)との同一化によって孤独や不安という生の現実から逃避したいという、根本的な一つの要求の現われだと、フロムは見る。
マゾヒズム的な傾向が隠しているのは、大きな力に同一化することで、存在の孤独や不安感から逃避したいという気持ちであり、これはさらに強大な全体の一部となることで、失われた誇りや栄光を回復したいという願望にも通じている。「総統」への絶対的な服従が、失われた中産階級の国民(家父長)としての矜持を取り戻すことにつながると想像されるのである。
またサディズム的な傾向は、他人を苦しめることで自分自身が権威のように振る舞うのであるが、実は攻撃対象である他者の存在なくしては生きていけない依存的な心理の形態であり、やはり孤独に耐えられず、他人や全体に依存することでかりそめの安定を得ようとする、逃避的な生き方である。
結局、サディズム的な傾向もマゾヒズム的な傾向も、資本主義社会によってもたらされる孤独や不安感という現実に向き合うことが出来ず、権威への依存によって表面的な安定や満足を得ようという、逃避的な心理の現われだということになる。
こうした権威主義への逃避によっては、人間は孤独や不安感を真に克服することは出来ず、最終的に自己破壊に向かっていく他ないことを、フロムは示唆している。


この第五章で特に印象深かったことを、三点ほど書いておきたい。
まずフロムは、権威主義的性格について、次のように書いている。

権威主義的性格にとっては、すべての存在は二つにわかれる。力をもつものと、もたないものと、・・・・(中略)かれの「愛」が力によって自動的にひきおこされるように、無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。無力な人間をみると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる。ことなった性格のものは、無力なものを攻撃するという考えにぞっとするが、権威主義的人間は相手が無力になればなるほどいきりたってくる。(p186)

こうした記述を読むと、この問題がナチスファシズムに固有のものではなく、新自由主義やDV・性暴力や貧困者・「弱者」への攻撃といった、現代の社会の普遍的あるいは特殊的な傾向に関わるものだということが分かるだろう。
二点目だが、フロムは、権威主義的性格の人の特徴の一つとして、「宿命に服従することを好む」ということを言っている。このことは、特に日本の社会の(自然主義的とも呼べる)固有的な傾向を考えるうえでも、たいへんに興味深い。

個人の生活を直接的に決定する力だけではなく、一般に人生そのものを決定すると考えられる力も、不変の宿命として感じられる。戦争があることも、人類の一部が他のものによって支配されていることも宿命である。苦悩の量がいつまでも減少しないのも宿命である。(中略)それはいつでも、権威主義的性格にとっては、服従するほかない、外部のいっそう優越した力である。権威主義的性格は過去を崇拝する。かつてあったことはこれからも永久にあるであろう。かつて存在しなかったものをのぞみ、そのために働くことは、罪悪であり、狂気である。(中略)
 すべての権威主義的性格に共通の特質は、人生が、自分自身やかれの関心や、かれの希望をこえた力によって決定されているという確信である。残されたただ一つの幸福は、この力に服従することにある。人間の無力感がマゾヒズム哲学の主旋律である。(p188〜189)

さまざまのサド・マゾヒズム的追求や権威主義的性格は、無力感の非常に極端な場合であり、また崇拝したり支配したりする対象と共棲的関係を結ぶことによって、無力感からのがれようとする極端な場合である。(p191)

この泥のような無力感の思想、宿命への服従の思想は、日本の社会を深く覆っているものだと思われるが、それがファシズムや競争的資本主義の基礎となる権威主義的性格と符合するものだということが重要だろう。
この点に関連して、フロムがこう言ってるわけではないが、僕なりの解釈を書いておきたい。
このような無力感の思想(否定的な意味で、ニヒリズムと言ってもよいか)の底に秘められているものは、やはり弱者や抵抗者に対する、(特に中産階級の)敵意だと思う。
フロムが考えている「自由」というもの、伸展して行こうとする人間の生の力は、その障害となるもの(支配的な権力)に対しては敵対し、破壊することで除去しようとする肯定的な力能であろうが、中産階級の場合には、自らの権益を保持したいという意図から、この生の本来の力の一つである支配権力に対する敵対性というものが抑圧されている。つまり彼ら(中産階級、市民、ブルジョワ、マジョリティ)は、生の肯定的な力能を抑圧しながら生きているのである。
そういう者たちの目には、「弱者」の位置に押しこめられながらも生き続ける人たちや、果敢に権力に抵抗して生を切り拓こうとする人たちの存在そのものが、許しがたいもの、嫌悪や憎悪をかきたてるものに映るはずである。何故なら、その人々の存在は、中産階級が自らの生を抑圧している事実の深刻さを、否応なく突きつけてくるからである(話がそれるが、キリスト教の思想の最も肯定的にして破壊的な核も、ここにあると思う。いわゆる「十字架」の思想だ)。
その事実を認めることは、そのまま中産階級が、自らの権益を手放すことにつながってしまうから、彼は頑強にそれを否認しようとする。
だから、彼らは抵抗する人々に内心では惹かれながらも、それ故にこそ脅威と憎悪を感じ、そうした人々の行為と存在(生存)自体を、無価値なものに貶めようとする。のみならず、それを理由にして、この人々を抹殺することで、自らの否認と権益の保護を完全なものにしようと、偏執的で欺瞞的な努力に執心することになるのだ。
以上が、フロムのこの本で言われている無力感や、宿命への服従の思想の意味するものだと思うが、こうした中産階級心理的傾向が、秩序を維持したいという支配権力の意図と合致する場合が多いことは言うまでもない。というよりも、現代の社会においては、政治権力は、こうした大衆の抑圧的な欲望や攻撃性に迎合する形でしか、安定した統治を行えなくなってしまっている節さえある。
大衆の、無力感による現状のなし崩し的な容認と、弱者・抵抗者へのサディズム的な振る舞いは、体制と一体化することで自らの権益を維持し、欺瞞的・抑圧的な生の継続を図りたいという欲望を、底に秘めていると考えられるのである。
三点目だが、さらにフロムは、権威主義的性格の人の特徴的な人生観の一つとして、「魔術的助け手」という概念を提出している。
これは、人生を主体的に作っていくのではなく、危機や困難に際すると超越的な外部の力が到来して助けてくれるという、無意識的な信仰のような依存的心性である。この「魔術的助け手」は、誰か特定の人間に託される場合もあれば、超自然的な「運命の力」のように考えられる場合もあるが、いずれにせよ、それは、人生に対する独立的な精神を個人から奪う心性である。
ここで依存の対象が人間であった場合、実際には期待がかなわないということも当然起こり、するとその人は失望した挙句、期待の成就を求めて、また次の人に「魔術的助け手」のイメージを託することになる。

彼が理解しないのは、かれの失敗がけっして正しい魔術的助け手を選ばなかった結果なのではないということである。それは自発的行動によってのみ達成できることを、魔術的な力をかりて獲得しようとした直接の結果である。(p195)

例えて言えば、「小沢が駄目なら、次は小泉で(あるいは天皇で)」といった具合である。「軍部やソ連が駄目なら、次はアメリカで」でもよい。そうやっているうちに、民主主義や革命を自力で実現する力は、どんどんわれわれから失われていくのだ。


ところで、20世紀の終わり近くなっても、なおファシズムの問題と取り組み続けていた思想家として、ドゥルーズ=ガタリの名があげられると思うが、彼らも、この本の著者のフロムと同じくスピノザを敬愛した人であり、またフロイト左派の考え方(社会心理学)に基づく人達だったことは興味深い。
ここで重要だと思われるのは、フロムが、消費社会や情報化社会における権威主義の新たな形態、つまりドゥルーズの言う「管理社会」論のさきがけのような分析を行っていることである。
宗教改革が道徳による内面の形成(権威への服従の規範化)をもたらしたものだとすれば、現代(20世紀)の社会の大きな特徴として、フロムは、常識や世論といった「匿名の権威」に、われわれが意識せずして服従してしまっていることを指摘する。
デモクラシーや消費社会の中で生きている現代の人間は、自分では自由を享受していると思っているが、実際には世論や宣伝(広告)によって強力に流布される「匿名の権威」に同一化し、服従することで、かりそめの安定を得ているのであり、そこにまた内心の不安による強迫的行動(強迫的な労働や蓄財、自他への攻撃性の増殖、といったこと)の根がある。つまり、そこにファシズムへの水路が開かれているのである。
フロムは、「自由」を標榜する民主主義社会の、ファシズムとの通底を暴いた第七章の冒頭で、次のような問いを立てている。

しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができる場合においてだけ意味がある。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。あるいは少くともそれに近づきつつあるだろうか。(p267)

資本主義がもたらした孤独と無力感は、人をナチスに見られるような露骨な権威主義への逃避に導く場合もあるが、また、個人に自我を失っていながら「自分は自由である」と思い込ませることで、自動人形のようにしてしまい、それによって心理的な不安を消し去るような社会システムをもたらす場合もある。
アメリカに代表されるような自由経済とデモクラシーの社会は、無論、後者である。このような、人間の「自動人形」化は、幼児から行われるものであることを、フロムは強調する。それは、感情の抑圧、特に「敵意と嫌悪」の抑圧ということだ。
子どもは、自分の伸展を妨げようとする周囲の大人たちに敵意や反感を持つものだが、圧倒的な力関係の故に、周囲に屈服することが通例である。

子どもはまずかれの感情を表現することを断念し、ついには感情そのものまで放棄してしまう。それとともに、かれは他人のうちに敵意や不誠実を意識することを抑圧するように教えられる。ときにはこれはなかなか容易なことではない。というのは子どもは大人のように言葉によってはたやすくだまされることなく、他者のそのような否定的な性質を見抜く力をもっているから。(中略)すなわち子どもは普通の大人の「成熟」に達するのに長くはかからない。そのときかれはなにかはっきりした悪事をしないかぎり、正しい人間と悪い人間とを区別する力を失っているのである。(p268〜269)

こうして徐々に、自発的な感情が、抑圧の結果「にせの感情」に置き換えられていく。
「われわれの社会」は、こうした「にせの感情」に満たされているというのが、フロムの考えである。
深い感情を持つことの苦しさから逃避し、テレビや映画、流行歌など消費文明やメディアが提供するうわっつらな感情の浪費で満足する。満足したと、自分を偽る。
それは特に、死の否認ということに現われる。

われわれの現代は単純に死を否定し、そのことによって、生の根本的な一つの面を否定している。(中略)しかし抑圧は常にそうであるように、抑圧された要素は、視界から消えても存在することをやめはしない。こうして、死の恐怖はわれわれのあいだに不条理な存在として生きている。(中略)それは経験の平板さと生活をおおっている焦燥との源である。(p271)

自発的な感情を失って、自動人形のように生きることで得られる安心や安定は、決して本当に心を満たしてくれるものではない。

人は肉体的な飢えで死ぬとき、静かに死ぬことはない。同じように精神的な飢えで死ぬときにも、静かには死なない。(p282)

心の底でみせかけの安心や安定に絶望した人々は、さらなる興奮と、安定の強固な幻想を提供してくれる政治体制が現われるなら、たちまちそこに駆け寄っていくであろう。

人間機械の絶望が、ファッシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌なのである。(p282)

フロムは、こうしたファシズムに結びついた現代社会の一般的な傾向を批判して、自発的な感情を回復して、理性だけではない総合的なパーソナリティの全体を実現するような社会を作っていくことを提唱している。
抑圧された自発的な感情を回復して、真の自我の実現のための社会的条件を構築すること。それが、フロムがこの本で示した、反ファシズム的な世界の実現のための構図だったと言えるだろう。