解消されないもの・ウトロ

国交省がウトロの住民の支援に乗り出しそうだ、という報道。

http://mainichi.jp/kansai/archive/news/2007/10/16/20071016ddf001040004000c.html



つい数年前までは、裁判で敗れて強制的な立ち退きが必至という見通しを聞いてたので、最近の情勢の急転は驚くばかりである。
ともかく、ウトロの住民(特にお年寄りたち)の住む場所の保障が公的になされることになりそうなのは、ほんとに良いことだと思う。
ただ、気になるのは次の部分。

ウトロ地区に在日コリアンが定住したのは、戦時中の軍用飛行場建設に朝鮮人労働者が従事したのがきっかけ。こうした経緯から戦後補償問題を抱える外務省が動きづらく、国交省が対応することになったとみられる。


分かりにくい書き方だけど、外務省が「戦後補償問題」の枠組みで住民の救済に乗り出すと、各地の他の問題も全部同様の救済(支援策)を行わざるをえなくなることが困るので、国交省に委ねた、という意味だろうか。
つまり、こういう種類の問題は、アジア外交とか日本政府の人権をめぐる態度への国際的な評価を考えれば、何らかの手を打ちたいのが役所なり政府の本音だが、「戦後補償問題」という形でそれをやってしまうと、コストも膨大になるし、何かと厄介だ。
そこで国交省による「住民への支援」という形をとった。
そういうことだろうか。


だとしたら、こういうやり方は、問題を「解決」するのでなく、「解消」してしまおうとするものであろう。
原則として、どんな形であっても、住む場所を奪われる人が出ないのはいいことだ。現実に生きている人の生存や生活の保障は、それ自体「目的」というしかないものだから。
だがそのことは、「戦後補償」と呼ばれるような問題、つまり過去に行ったことについて国がどう責任をとるか、という問題を軽視していいということを意味しない。むしろ、その重要性を浮き彫りにするはずである。
過去の行為に対してどのように責任をとる国なのか、という事柄は、まさにそこに関わる内外のすべての人たちの現在と今後の生存と生活にも関与してくる問題だからである。
だから、ウトロの人たちがあの場所に住むことになった経緯や、戦後その人々が味わってきた苦痛に対しても、国がどのような態度をとるのかということは、曖昧にされてはいけないと思う。


こうした問題においては、体験者(当事者)が死んでしまえば、自然と問題は「解消」される、という考えもある。
だが、例えその人たちがすべて死に絶えたとしても、過去の行為に対して正しい補償を行なわず、その努力さえ示さず、ただ自然に「解消」することを待ち続けるような国家に、われわれが生き続けるという現実は残る。
あえて言えば、この国に生きる人の全てが死に絶えるまで、こうした問題が「解消」することなどないのである。