占領と追放

以前、戦時中の日本の婦人雑誌を見る機会があったが、新年号の冒頭に「ヒットラー総統の言葉」というのが載っていた。詳しい文面を忘れてしまったのだが、内容は、自国の領土拡張を正当化するもので、ある土地に先住しているからといってその人たちにその土地に住む特別な権利があるわけではない(だから奪ったもの勝ち)、と主張するものだった。
一読して、カントの『永遠平和のために』の第三確定条項の一節、

ところで人間はもともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。(宇都宮芳明訳)

を悪用したものであると、察しがつくものだった。

永遠平和のために (岩波文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)



ユダヤ人でもあったコーエンという「新カント学派」の哲学者を通じて、カントの哲学とナチズムが特別な結びつきをしていたということは、よく知られている。
そして、上記のような(カント哲学を悪用した)「先住権の否定」の論理を、今日もっともよく継承している国のひとつは、イスラエルであるとも言えるだろう。
そして繰り返すと、上の言葉が巻頭に載っていたのは、戦時中の日本の雑誌である。


さて、「占領」という場合、ふつうは先住者がいるところに誰かが攻め込んだり、たくみに入り込み、先住者たちを追い出したり住む場所を限定して封じ込めたりして、後から来た者が支配者としてそこに居座ってしまうこと、と理解される。
たしかに、ズデーデンも、いまイスラエルがあるところも、また、「北アメリカ大陸」や「北海道」もそのように占領され、支配された。
だが、「占領」ということの本質は、もともとある場所に住んでいる人たちを、その人の周囲の生活環境から切り離してしまうところにあるのではないかと思う。つまり、「占領」がもたらすこととは、人を、その人が生きている土台となっている場所(条件)から切り離し、そこから排除してしまうことである。
排除された人は、人として生きるための土台を失って、死ぬか流浪するしかない。


そう考えると、この社会のなかで職を失い、家族や人間関係を失い、住む場所さえも失った野宿者の人たちは、まさに「国」や「資本」や「社会」(ぼくたちの)によって、社会空間から排除された「占領の犠牲者」のようなものではないかと思う。
この人たちから「場所」を奪ったのは、一般社会の論理と現状であり、それを容認しているぼくらの方なのだ。
生きるための場所を奪われて社会から追い出されたのは、野宿者の方であり、この人たちが公園にテントを張って暮らすというのは、「居場所を失ったこと」の一形態だと思うのだ。この人たちは、その空間を「占拠」しているわけではなく、居るべき場所を追い出された結果、そこに居るのである。


土地を追われ、排除された野宿者の人たちは、公園の一隅や河川敷に追い込まれ、かろうじてそこに生きる「土台」を見出そうとする。それは、法的なルールによって守られない、人として生きるための、ぎりぎりの行為であろう。
だが、そこからも行政によって、この人たちはテントもろとも排除される。
つまり、ぼくたちの市民的・合法的な社会空間からの排除の後、さらに「難民」としてのぎりぎりの「ホーム」からも追放されるのである。


生田武志の『ルポ 最底辺』で、もっとも印象に残ったのは、じつはある高齢の野宿者の人(シベリア抑留を体験した)が、バブル崩壊で仕事が激減したときのことを回想して言ったという、

シベリアの体験があるからね、これは日本の捕虜になったなと思ったよ(p088)


という言葉だった。


社会の中で人を「捕虜」であると感じさせてしまう者、占領する者の論理が、この社会や、ぼくたち自身の内面を染めているのではないか。

ルポ 最底辺―不安定就労と野宿 (ちくま新書)

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