愚かな話

市場経済の拡大が無限に続くとか、生産性が永久に向上し続けるとか、科学技術の進歩の可能性は無限大だとか、その手の話をよく聞く。
だから、たとえその拡大や進歩の過程から零れ落ちる人があっても、最終的には富のパイの増大がそれによってもたらされるのだから、その方向を追求することこそ最善なのだ、ということである。
「零れ落ちる」人たちを出さないように配慮しようとすれば、それは拡大や進歩の過程を阻害することとなり、かえって多くのマイナス(救われざる人々)を出すことになる。だから、「零れ落ちる人たち」が出ても仕方がない、とこうした論者は言う。
「大の虫を生かすために小の虫を殺す(見殺しにする)」というわけだ。


これについて、ふたつのことを思う。
ひとつは、進歩や拡大というものが無限に(透明に)続くものではないようだということに、今では多くの人が気づきはじめてるのではないか、ということだ。
過去から現在までと、現在から未来への道は違う。しかも、過去は、「この現在」から遡及的に「必然」として見出された過去でしかなく、したがって「別の可能性」があったことは排除できない。
たとえば、生産性といっても、人が生きるために最も必要な生産物は食料である。
環境破壊や人口の増大により、この生産の量が、増え続けるという保障も、大きく不足しないという保障もない。いつ破綻するか分からない。
科学技術においても、経済においても、そうした不透明さから来る「破局」の規模の大きさは、今では途方もないものになっていると思える。


こうした、いわば「アクシデント」は、「市場経済」や「科学技術」の外にあるものではないだろう。つまり、それらは「事故さえ起きなければ、無限に拡大するはず」と言えるような種類のシステムではない、と思う。


もうひとつ。
「大の虫を生かすために小の虫を殺す(見殺しにする)」とき、人はほんとうは、より多くの人を救うことの代償に、「零れ落ちる人たち」を(やむなく)見殺しにしているわけではない。
ほんとうは、たんに見殺しにしているのである。
だから、この人たちをどう救うかという倫理的な課題から、免責されるものは誰もいない。


以上二つのことは、悪い意味の「宗教」に関わる問題だと、ぼくは思う。


追記:上で言う「アクシデント」のなかには、暴動や戦争のようなものも含む。それらは、たんに「偶発的」だろうか?