偏見の問題ではない

派遣村」に実行委員として関わった記者さんの記事。


記者の目:派遣村で「住所不定」の過酷さ思う=東海林智
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/


頭が下がる思いで読んだが、今更ながら驚くような実情も書いてあった。

また、今回、村には昨年末に職を失った人だけでなく、数年にわたり野宿をしている人も大勢、炊き出しを食べにきた。カンパに訪れた人に「野宿者に飯を食わすために寄付したのではない」と詰め寄られたことがあった。だが、村では当初から、野宿している人も区別せず食事を出し、対応すると決めていた。それは、現状で野宿をする人も、かつて何らかの事情で仕事と住居を失っているからだ。実際、野宿が長い人に話を聞くと、以前派遣や日雇いの仕事をしていて、仕事を切られたことをきっかけに住居を失った人がたくさんいた。彼らは、昨秋以降の世界同時不況より早い段階で切られただけで、同じように不安定な雇用の中で働いていた。


カンパに来た人のなかに、「野宿者に飯を食わすために寄付したのではない」と、詰め寄る人があったとのこと。
こういう気持ちでカンパや物資を送ったりした人も結構いたのか?


野宿者に対する偏見ということ以前に、これは、その人の心のなかに、排除の構造が強くある、ということだろう。
そのことと、この人が派遣労働者たちにカンパしようとしていることとは、矛盾しないのだろう。


生死の境にある人を助けるか、助けないか。
この人は、ともかく助けるために手を差し伸べようとした。
だがそれは、「人の命を救う」ためということではなく、線引きされた内側の領域を守るためになされた行動であろう。
解雇された派遣労働者を助けることは、この人の価値観に合致するが、野宿者の命を救うことは価値観に合致しない。むしろ、野宿者の排除こそが、価値観を守ることにつながるのだ。


くり返すが、これは「偏見」の問題ではない。
「人の命を救う」という観点がもともと欠けている、もう少し穏当に言うなら、その観点が強固な価値観(線引きをして区別したいという気持ち)によって強く阻害されているのである。
わざわざ派遣村まで来て、カンパしようとしたのだから、この人はきっと、ぼくなどよりもずっと熱情なり人情味なりをもってるのだろう。自分の仲間だと思える人間、線引きの内側の存在に対しては、命を張ってでも助けようとする人かも知れん。
だがそれは、「人の命を救う」という気持ちからは、決定的に隔てられている。線引きをするということは、そういうことなのだ。
この隔てている壁こそ、壊されるべきものである。


「人の命」という事柄は、それをまっとうに捉えるなら、区別(線引き)ということが、決して正当化されないはずのものである。
どんな基準であれ、正当な区別ということはありえない。
この場合、「やって来た全員に食料を配りたいが、限りがあるのでどこかでやむなく線を引く」ということならともかく、この人は、はじめから「野宿者に飯を食わせるためにカンパしたのではない」と言っている。つまり、排除先にありき、なのだ。
この人が、野宿者にどんな偏見を持ってるか、持っていないか、それが問題ではないのである。


このように排除の構造を心に強く内在させている人がいるという問題と、社会のなかで互助的な体系を広げていく(政策提言的な運動も含めて)必要があるということとは、根本的に別のことであろう。
前者を改善していかないと、社会は基本的には変らない。排除的なままである。


この発言をした人に熱情や善意があったということも確かだが、それが阻害されるという不幸を背負っていることも、また確かなことである。
阻害しているもの(排除の構造)の解決が図られることによってのみ、人々の熱情や善意は、はじめて所を得ることができ、「人の命」の尊重される社会が近づくのだと思う。