溶けていく主語・誰の願望か

大ヒットになった『千の風になって』という歌。
この歌詞に対する違和感を、何人かの人が表明するのを読んだり聞いたりしていて、ぼくもどうも妙な歌詞だなあと思っていたのだが、どう妙なのかがはっきり分からなかった。
それが、今日ふいに分かった。


ぼくはずっと、生者が死者の気持ちを勝手に想像して(作り出して)歌ってるところがおかしいのだろうと、漠然と思っていたのだが、考えてみると、そういうことではなく、この歌はたんに生者の「こうであってほしい」という願望を、死者になりすまして(装って)歌っているのである。そこが、この歌の「妙」さの理由なのだ。
自分の願望を、まるで別の人(しかも死んでしまった)の思いや願いであるかのように語るという、かなり醜悪なものをここに感じる。語られる願望の主語が曖昧にされることのなかで、誰か何かを盗みとられている者がいる(誰かを明示できないけれど)、という印象を受けるのだ。


それに関連して、もうひとつ思い浮かぶのは、「介護予防」という不思議な言葉だ。
ぼくは、最近、自分が母親の介護をするようになるまでは、この言葉を知らなかった。聞いていたかもしれないが、記憶に残らなかったのである。それで、介護保険の相談のために市役所を訪れて、その窓口でこの「介護予防」という言葉を聞いたとき、とても変な感じがした。
それはひとつには、「虫歯予防」のように、なにか「介護」される身になるということが悪いこと、不幸なことであるかのように決めつけられようとしている、と感じたからでもある。そして、もちろんその要素は大きいのだが、それだけでなく、言葉自体が妙なのだ。
「介護」というのは、「介護する」という動詞から分かるように、被介護者ではなく、介護者が主語となる言葉である。ところが、この「介護予防」という言葉は、実際にどう使われてるかというと、「奉仕活動は介護予防にもなる」(総理府の番組で、実際にこのフレーズを聞いたことがある)というように、介護を受ける側(例えば老人)が主体となって心がけるべきもの、とされてるのである。
そうであるなら、「介護予防」ではなく、「被介護予防」とでも言うべきだろう。
いや、そんなややこしいことを言わなくても、たんに「老化防止」と言えばすむことである(これも、問題のない言葉ではないが)。「介護予防」という妙な日本語を使う必要はない。


結局、これはどういうことかと言うと、「介護(保険)の必要となる件数を減らしたい(予防したい)」というのは、予算をやりくりする行政側の願望である。それ自体を、ここでどうこう言うつもりはないが、その行政の願望を、まるで介護を受けることになりうる人たち自身の願望であるかのように思わせようとするところに、「介護予防」という言葉の機能があるのではないかと思う。
つまり、行政の意思と、それから独立してあるべき市民の側の意思とが、溶融することが求められているみたいであり、そのために「介護予防」という奇妙な日本語(行政造語)が幅を利かせている。
そんなふうに感じるのである。