続・『千の風になって』

きのう書いた『千の風になって』のことだが、あれからもう少し考えて、あの歌に対する違和感を一口にいうと、自分と他人(しかも死者)との境界が、あまりにもやすやすと越えられていると感じる、ということにつきるのではないかと思うようになった。


もちろん、死んでしまった人の思いを想像し、その人になったつもりで歌うということは、珍しいことでないかもしれない。しかし、そこにはいくらかのためらいや、死者に対する距離感のようなものがこめられているべきであるという感覚が、ぼくにはある。
それを、あの歌は、(生者が)死者になりかわって堂々と歌い上げている。それを聞いているぼく自身も、感動しようとしている。それは、自分が「感動したい」と欲するものが、そこにこめられているからだといえる。
ところが、死んでしまった人は、「それは自分の気持ちではない」と言って異議を申し立てることもできないのだ。
いわば、「感動したい」という、ぼくや他のみんなの欲のために、死んでしまった人の存在が利用されている。
ぼくらにとって、ほんとうははかりがたい存在であるはずの、そしてそうであるべき、「死者」という大事な存在が、ないがしろにされている。
そんなふうに、ぼくは感じてるのだと思う。