憎まれ口

議論になってるようなので、ぼくも今回のdemianさんの一連の文章を読んで感じたことをちゃんと書いておきたい。

http://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p2

http://d.hatena.ne.jp/demian/20080514/p1

このご意見にも同意しまくりです。具体的には平和運動系とロハス〜エコ系はニセ科学ニューエイジが細かく入り込んでいてもはや「終わっている」状態に見えます。9.11陰謀論も結構広まってますし。

なんというかエコ系のロハスでスピリチュアルな人の日記を読んだりすると議論以前に反知性主義なものを感じるくらいですので、まあ、無理でしょうねえ。


これらの言葉を読んでて思ったのは、こういうことである。
以前、demianさんは、杉田俊介さんの発言を批判して、このように書いたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/demian/20070128/p1

そして「本物のどん底」「そうでないどん底」の境界線を引いてしまうことで人々の分断を進める作用もありそうです。本物のどん底を味わってない奴らは地獄に落ちろ!といった憎悪をたきつける政治も可能でしょうし、どん底比べの審判をする人は絶対的な高みに立つことが可能です。そういえば少し系統は違いますがこうした心理メカニズムを利用して人々の憎悪をたきつけて「抵抗勢力」を駆逐する、という政治手法はこのところよく目にするものです。


もっとも日本におけるモラハラ的な言葉がありふれた日常の繰り返しにすぎないといえばそうなんですが、杉田さんの文章を読んでいて非常に不安を覚えるのは、杉田さんは憎悪と分断と粛清の政治を目指しているのではないか?と時々思われることがあることで、どうも怖いのです。俺の言うとおりにしろ的な妙なプレッシャーを読者に与えているというか(もっともそう感じるのはわたしだけ?)。


ぼくには、今回のdemianさんの文章は、まさに『憎悪と分断と粛清の政治』を目指しているもののように読めるのである。
言行の矛盾とか、ダブスタのようなことを批判したいのではない。
端的に言って、demianさんは(今回の文章に限っての話だが)ぼくには「変わった」と感じられるのであり、その変容が、ぼくには不快なのだ。


杉田さんの当時の発言が、demianさんの批判に該当するものだったかどうか、ぼくには分からない。ただ、demianさんには、そのような「政治」的意図のある発言だと思えたわけだろう。その危惧を書いた。これは分かりやすい。
少なくとも、そう理解する限りは分かりやすい。
ついでに書くと、ぼくは正直に言えば、ここで引かれていたような杉田さんの物言いが好きではない。それは、「ぼくならこういうふうに書かない」という意味でもあるし、「ぼくにはこういうふうには書けない」というネガティブな含意もある。
ここで大事なことは、杉田さんの発言を、ぼくは「好きではない」と書いたが、好き嫌いは別にして、杉田さんの立っている位置、ものを言っている方向、そういうものは、ぼくには明確に見える気がする、ということだ。あれらの文章を、杉田さんが自分をさらして書いていることはたしかだと思え、その意味の真実性のようなものは認めざるをえない。
一方、ぼくとしては、demianさんのこのときの危惧と批判には、理解できるものがあったのである。憎悪や分断をあおるような言説を、しかも政治的意図をもって流布させることがあってはらない、少なくとも、ぼくは嫌だから、ぼくのようにその「嫌」という感情を言葉にして発信してるdemianさんの存在と立ち位置をぼくは理解し、その発言自体には(内容以上に)共感をもったわけである。


ところが、今回のdemianさんの記事、上に引用した文章等には、そういうものが感じられない。
「運動」が「癒し」の場になっていることを批判しているのは、その批判によって「運動」が目指しているものがより十分に達成することを求めてのことだろうか。それとも、「癒し」を求めて集まるような「イタイ」人たちを、たんに排除しバッシングしたいのだろうか。
どちらでもあるし、どちらでもないように思える。そこが見えないのだ。
あえて言えば、そういう人たちを排除やバッシングの対象として提示することで、「普通の市民」だとか「ニセ科学的でない」と思いたがっている人たちの共感を得ようとする、多数派工作のようにしか思えない。
だから、『憎悪と分断と粛清の政治』を目指してるように読める、と上に書いたのである。


一口に言うと、demianさんの肉声のようなものが、この文章には感じられない。
「肉声」があるにしても、それは別のもので覆われてしまっている。
要するに、批判している、この人の位置が分からない。
それがぼくには不快なのである。


まあ、ぼく自身も、いま自分が書いたような批判を受けることが、時々ある。
実際、そういう不明瞭な場所に立って書いてしまっている場合もあるだろう。
それを他の人から見れば「不快な変容をした」というふうに思われても、自分ではそんな自覚はない、という経験はもちろんあるのである。
だから、demianさんの「変容」というぼくの勝手な印象にもとづいて、何か断罪するような物言いをしたくはない。
しかし、共感していた人が「不快な変容をした」と感じたなら、そのことを言明して批判しないことは、ぼくにはそれこそ不快なことである。
そこで、このように憎まれ口を書いた。