『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』

不登校」の体験者である著者二人が、今までの経験を振り返り、現在の思いを綴った本。よく知られているように、著者の一人貴戸理恵は、不登校の研究者でもある。


不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)


この本は、図書館では子ども室に置いてあるぐらいで、たいへん読みやすい造りになっている。
でも、書いてあることはそう簡単ではない。なんというか、まとめるのが非常に難しい本なので、ぼくなどには読むのがちょっとしんどかった。
そのことに関係すると思うが、本書で一番感心したのは、次の一節である。

たぶん必要なのは、支離滅裂なものに根気よく傾けられる耳だ。ほつりほつりと語られる子どもの言葉を、「病理・逸脱」とか「選択しうるもの」とかいう今ある物語に回収してしまわない、付き合いのよさだ。わからないものをわかるように変えるのではなくて、わからないものを受け入れるために自分が変わる用意だ。(p157〜8)


まったくこのように、著者(とくに貴戸)は、「ほつりほつり」と自分の経験や思いを語っているように思えた。
この一文で「子ども」と言われているのは、直接には大人や研究者が言葉に耳を傾けるべき対象としての不登校の子どもたち一般ということだろうが、貴戸が自身の体験を語っているこの本においては、この「子ども」とは彼女自身のなかに居る存在ということにもなる。
この自分のなかに居る存在について、本のはじめの方では、このように書かれている。

ただ、よくわからないメカニズムで動く小さな生き物みたいなやつが、いまだにわたしの中にいて、つっついたり叩いたり、前に行きたいのに後ろ向きにひっぱったり、ひやかしたりふてくされたり、泣いたりしているのだ。わかろうと思ったってわからないし、「わかった!」と思ったとたんにたぶんわたしの中から出ていっちゃう、昔話の福の神みたいなやつ。
こいつをどうしていいのか。
(中略)
それが、「学校に行かない子ども」だ。(p22)


この文章も、先の引用部分もよく分かる。
自分のなかにある「学校に行かない子ども」を、そのままに受け入れることは、彼女が生きていくうえで、何よりも大事なことだったのだろう。
それを「病理」という言葉に押し込んで社会の秩序に当てはまるように「治して」しまうことは、とてもできないことだった。
また、「選択の物語」という枠組みにあてはめて完結させてしまうことも、自分のなかのこの「子ども」に対して誠実ではなかった。
これはまあ、ぼくは著者と同じ体験をしたわけではないが、なんとなく分かるように思う。


ただ、自分のなかに居るこの「子ども」を大切にすることと、他人の声に耳を傾ける努力とが、ほんとうにいつも重なるのかは、ぼくには分からない。


不登校」にせよ、「ひきこもり」にせよ、人間一般にとってと言えるかどうかは別にして、少なくともその人自身にとっては、自分の人生を生きていくうえでもっとも根源的な在り方であるといえるのだろう。
だから、たとえばそれを「治す」というようなことは、この人の生にとっては不当であるか、あるいは必要であったとしても本質的な意味をもちえないことになる。
少なくとも、そういう人たちが存在すると思う。
そして、「その人自身」にとって生の根源的なあり方であるなら、人間一般にとってどうかということは、二次的な問題にすぎないとも思える。


だから重要なのは、子どもの言葉に耳を傾けるというとき、他人自身や自分自身によって成り立つはずの、実存の多数性のようなものをどう確保するか、ということではないかと思う。
それがないと、耳を傾けるという行為は、たんに自己の同一性と奥深さを強調するだけに終わってしまうのではないか。
つまり、この「実存の尊重」は、どこかで「自己」を裏切ったり対決しなくてはならないはずなのだ。


ところで、ぼくも小・中・高と、学校にあまり行かなかった。
当時は「不登校」どころか、「登校拒否」という言葉さえなく、自分は学校にとっても親にとっても、たんに「困った子ども」であったと思う。
そしてそれは、基本的に今も変わらない。「学校に行かない子ども」は、ぼくの「中に」居るわけではなく、たんにこのぼく自身なのだ。