朝鮮総連のことについて

私たちは、ナチであるかユダヤである以外に選択の余地のなかった一九三三年以後のドイツ人と同じ状況に置かれている。(ウィリアム・フォークナー)


先日のエントリーのなかで当ブログの記事に言及していただいた『世に倦む日々』さんが、続いて、朝鮮総連の関連施設に対する免税廃止の動きを批判するエントリーを書かれている。
http://critic3.exblog.jp/5298349/


ぼくも、友人に総連の関係者が何人かいることもあって、以前からこの問題について意見を書くべきだと思いながら書けずにいた。そのことに恥ずかしい思いがする。
東京枝川の東京第二朝鮮初級学校の問題に代表されるように、朝鮮学校朝鮮総連の関連機関・施設に対する行政からの圧力は、近年強まっていたのだが、さきのミサイル発射事件以後は、国家による「制裁」の動きに便乗するかのように各自治体による免税措置廃止の動きがなしくずしに進みつつあるのが現状だ。早晩、この動きは日本全国に波及する可能性が高い。
『世に倦む日々』の記事は、一読して分かるように、非常に論理的であり明快な内容である。書かれていることの全てに同意というわけではないのだが、細かいことはいい。
とくに、次のような箇所には、全面的に賛同する。

その首長の行政判断がどれほど合法的なものであろうと、措置の本質が在日朝鮮人に対する嫌がらせでありいじめである真実は否めようがない。行政権力による陰険な弱いものいじめ。

在日朝鮮人の人間としての権利が、数百グラムほど軽くさせられたのであり、同じ人間ではなく、犬や猫に近い存在に「法的位置」が変えられたということなのだ。軽く扱われていい存在だと公権力が認めたのであり、その延長には戦前のナチスユダヤ人迫害の絵が見えてくる。


要は、公権力による、特定の人々の「人間としての権利」の剥奪が公然と行われつつあるということである。
核心をついた明晰な認識であり、なんの異論もない。今回の動きはたんに朝鮮総連という「組織」に関わる問題ではなく、あくまで(在日朝鮮人の)人間としての権利の問題であると言い切っているところが、この記事の見解のずば抜けているところなのだ。


たとえば「朝鮮学校の生徒への暴力を許すな」とか、「在日に対する差別的な言動や書き込みは駄目だ」といった、いわば個人レベルでの反差別的な意見ならこういう場にも書きやすいし、ある程度賛同も得られるだろう。
しかし、朝鮮総連のような組織、それも朝鮮民主主義人民共和国(と、ここはフルネームで書くが)という、今や公然と「敵国」呼ばわりされることさえある国家と一定の関係を持っており、マスコミでもバッシングの対象になることの多い(というか、ほとんどだ)組織の権利についてとなると、ことは違ってくる。
個人の安全や権利の擁護なら訴えやすいが、組織となると、途端に難しくなる。しかも、その組織が「政治」や「思想」や「国家」に関係するとなると。
どうもこの問題について語ろうとするとき、(自分のなかにも)そういう見えない壁のようなものの存在を感じるのだ。
実際、朝鮮学校の生徒のような個人に対する嫌がらせや暴力行為を批判はしても、一連の「総連バッシング」のような報道、そしてとくに拉致事件発覚時に起きた総連関連施設への銃撃事件などの実際の「テロ」的な事件についてさえ、総連という組織に対してのものとなると言及・批判が十分なされない場合が多いと思う。
個人への暴力や差別は批判するが、総連という特定の組織への攻撃や権利侵害には、なぜ声をあげにくいのか。この社会には、そういう言論の場の性質のようなものがあるということか。どうもここが気にかかっていた。
上記の『世に倦む日々』の記事は、この点のごまかしを鋭くついている。つまり、「個人」と「組織」とを都合よく切り離し、前者の権利だけを擁護して、後者の権利は侵害されても黙認するという形で行われる、「人間としての権利」の剥奪の容認の過程というものを、暴いていると思うのだ。



とりあえずここで強調したいことは、在日朝鮮人が人間(朝鮮人)として生きるうえで、「組織」(団体)というものの存在が非常に大きな役割を果たしてきており(歴史的にも現在も)、「個人の権利は擁護するが、団体の権利は軽視されても黙認する」という態度では、ここでは個人を守ったことにはならない、ということだ。
朝鮮学校の教育という事例ひとつをとっても分かるように朝鮮総連という「組織」(団体)の権利が崩されることによって、多くの在日の人たちの生活や教育、つまり個人としての生きる権利が直接に侵害されるという事実がある。
朝鮮本国という国家との結びつきや、その組織としての問題性を理由にして、それだけで総連という組織の存在をまったく否定し、社会的な排除の対象にしようとすることは、在日朝鮮人自身がそれをするのなら話は別だが、マジョリティーであるわれわれ日本の人間がしていいことではない、とぼくは思う。
とくに戦後の在日朝鮮人(ぼくはこの語を、いわゆる「在日」一般の意味で用いている)の歴史をみれば誰でも分かるように、「組織」を持つことなく、バラバラな個々人のままで、権利も安全も保障されるような環境には、この人たちは生きてこなかった。その状況は、残念ながら、現在もさほど変わってはいない。全ての在日の人にとってそうではないかもしれないが、変わっていないといえる面が多くある。
差別や暴力から在日の権利や安全を守るというとき、「組織」と関わりをもつことでしか自己や共同体の安定と持続を確保できなかった、このマイノリティーの人たちの特異な歴史を、もう少し斟酌するべきであると思う。
総連という組織への、行政・マスコミ・市民による野放図なバッシングは、この面から言っても端的に在日個々人の人権に対する侵害なのだ。


だがそれ以上に、どんな理由があっても特定の個人や団体が、社会のなかで野放図なバッシングや攻撃の対象となることで人権を侵害され、また今回の行政の措置にみられるような公権力による公然たる(なしくずしの)迫害の対象となってはならない。
「組織だから」「総連だから」というのは口実で、ここでは在日全体の「人間としての権利」が否定されていることは明白だ。それはまた、すべての人間の権利の否定にもつながる。
いま「朝鮮総連だから」というバッシングの理由付け、権利剥奪の理由付けに抗うことは容易でないが、だからこそ、ここに差別・反差別の分かれ目があると考えるべきだ。
国家やマスコミの報道や世論の趨勢とぶつからないところで「反差別」や「人権の擁護」を言っていたのでは、残念ながら個人の人権も生命も守りがたいというところまで、この時代は来ている。


一度「軽く扱われていい存在」だと公権力に見なされた人々の権利や安全が、政治情勢の変化のなかでどうなっていくか、想像したくはないが、『世に倦む日々』であげられていた事例は、ぼくにはオーバーなものとは思われない。
冒頭に引いたフォークナーの言葉のように、この事柄に関して「中立」という立場は、もはやありえなくなっているのではないかとさえ、ぼくは思う。つまり、迫害する側に立つか、それともされるものの側に立つのか、ということだ。


もう少し書きたいこともあったが、今日はこれで。