きのう感じたこと

まあ、これは言わずもがなのことだけど、いちおう書いておく。


昨日言及したmojimojiさんのエントリーを読んだときに、ぼくはすごく反省したわけです。安部という人について、『やはり一人の命』(mojimojiさんのエントリーより)というふうに感じて心配するという気持ちが、自分には稀薄だった。
それを反省したのは、「同情心」とか「フェアプレー精神」みたいなことからではない。


安倍首相の様子を見てて、「ヤバイ」んじゃないかと感じたのは、ぼくも同じだけど、昨日も少し書いたように、これまでの彼の政策や言動、行動を見ていて、「いい気味だ」というような冷淡というより、残忍な気持ちがかなりあった。
それは、ひどい政策や政治行動を推し進め、行ってきた人という印象が強かったからだけど、そういうことは実行した政策や具体的な行動を個別に批判すればいいことで、安倍氏本人の苦境をどう見るかということとは、ほんらい別の問題。
もちろん、教育基本法の改悪とか、ほんとにひどい政治だったと思うから、政治家として許せないということはある。そしてもちろん強い権力を持っている人だから、その人への批判がある程度人格への憎しみ、個人攻撃のような要素を含むことも、一概に悪いとは思わない。
しかし、ぼくの「冷淡さ」や「残忍さ」は、そういう性質のものとはやや違う。


つまりそれは、「安倍政治」でも「小泉・安部政治」でもいいけど、「改革」というような名のもとに、追いつめられた人を放置して死なせたり、暴発させたりしてしまう、そういう感覚と同様の性質をもつような「冷淡さ」であり、「残忍さ」だった。
つまりは、自分が批判するべき敵に、すっかり似てしまっていた。というより、いわば「小泉・安倍」的なもののなかに自分がすっかり呑みこまれている。
だから、これはいけなかったと思うわけだ。


結局、安倍政治を批判した人は何を批判したのかといえば、それは「追いつめた人を放置して死なせたり、暴発させたりしてしまう」ような世の中を、この政治の方向が作ってしまうだろうということだったと思う。
ならば、安部という一人の人が、まさにそのような状況に立たされたときに、そこに『やはり一人の命』を見出して、まずその人の身の上を心配するというふうな視点がもてないのなら、冷笑や「自業自得だよ」という思いだけで済ませてしまうなら、ぼくたちはこの「小泉・安倍」的なものに負けたことになるのである。


mojimojiさんの文章を読んだときに、自分にそういう視点というか、『やはり一人の命』を見出す、当たり前の気持ちが欠けていると感じて、情けなかった。