小泉氏の脱原発発言

小泉元首相が脱原発を語り始めたことが、日米のマスコミを賑わせたり、巷や、また国会でも話題になってるようである。
小泉氏の名を聞くと、いつも思い出すことがあるので、書いておこう。


どの選挙だったか忘れたが、小泉首相の人気が絶頂の頃、僕の住む町にほど近い駅前に、国政選挙の応援演説にやってきたことがあった。
その駅は、郊外を走る私鉄の各停しか止まらない小さな駅で、そんな地味な場所に、連日ニュースやワイドショーの画面を席巻しているあの人物が来るとは俄かに信じがたかった。僕は当時も今も、根っからの反小泉を自認しているのだが、それ以上にミーハーなので、一目本物をこの目で見ようと、いそいそと出かけて行ったのである。


着いてみると、駅前の小さな広場は、すでに人で埋め尽くされていて、演説用の選挙カーの正面には入りこむ隙間もなかった。それで仕方なく、僕は選挙カーの裏側の、薄暗い小さなスペースに立つことにした。
そこは、演説が始まっても、小泉氏など演者の顔を見ることは出来ない位置なので、盛況にも関わらず、立っている人影は少なかったのである。それでも、表情は見られぬまでも、せめて背中を見て声だけでも聴きたいという、僕のような物好きが何人かは佇んでいた。
小泉氏一行の到着は、大幅に遅れ、進行役の人はしきりにお詫びを繰り返していたが、帰る人はほとんど無かったと思う。


予定時間を一時間近くも過ぎてから、ようやく一行が到着し、大きな拍手で迎えられた。車の上に最初に上がったのは、やはり小泉氏だったのだが、ここで驚かされることが起きた。
テレビで見る印象とは随分違って、小柄でやや背中が曲がって見える、白髪交じりのこの初老の男は、疲れたような足取りで車上に上がるや、いきなり満員の群集に背を向けて、選挙カーの裏側、つまり、僕を含めた少数の人間だけが立ち尽くしている薄暗い一角に向かって、深々と頭を下げたのである。
どうせ話し始めても顔を正面から見ることなど出来ないだろうと思っていた僕は、これにはまったく意表を突かれた。
その後、振り返って満員の群集の方に顔を向けた小泉氏は、ほとんど頭を下げもせず、何事もなかったかのようにスピーチを始め、そして五分ほど喋っただけで、そそくさと東京に帰って行った。
つまり小泉氏は、人々を長時間街頭で待たせ続けたことへの詫びの表現を、まず誰よりも、普通なら演者(政治家)の関心が向けられることもないであろう位置に居た少数の人間にだけしてみせ、そして悠然と去っていったのである。


僕はこのとき、小泉氏の大衆的な人気の秘密の一つを、はっきりと見たと思った。
彼は、常に、社会の中でなんらかの不遇感を感じている人たちに、共感や同情を寄せているということをパフォーマンスするのだ。その暖かさを向けられたと感じた人たちは感激するし、そうでない者たちも、かえってこの傲慢な政治家の意外な一面に好感を抱く。まあ、ツンデレという奴だ。
これは、どこまで意識しているのか知らないが、ポピュリストとしての確かな技量ということになるのだろう。
操り人形の感が否めない安倍首相と比較して、小泉氏はポピュリストとしての格が違うというようなことが、氏に批判的な人たちの間でも言われることがあるが、それはこうしたところに表れているのではないだろうか。


だがしかし、よく考えてみると、こうした技量を身につけている人は、何も小泉氏一人ではない。
自民党の政治家たちは、戦後ずっと、こういう手法を用いてきたのである。
高度成長の陰で、置き去りにされたり、過疎だの公害だの、原発や基地だのを押しつけられて苦しんできた人たちに、公共事業や補助金という形で、「見返り」を供与する。それを、不遇さに対する「暖かさ」(温情)だと感じた人たちからの得票によって、自民党は長期安定政権を築いてきたのだ。そこには、たんなる利害だけでない、人々の心情的な要素が働いていたはずである。
小泉氏は、この点では、意外にも自民党の伝統的な政治手法のすぐれた継承者なのである。
この、高度成長がもたらす不平等を産出した張本人は、他ならぬ自民党政治なわけだが、自民党の政治家たちは、自らが作り出したこの不平等という舞台の上で、弱者への配慮を忘れない心暖かい権力者という、都合のいい役割を演じ続けてきたわけである。
小泉劇場」とは、実は「自民党劇場」でもあるのだ(あの時、時間に遅れたのも、わざとだったかも知れないぞ!)。
権力が成長や繁栄の犠牲となる「弱者」を作り出し、その弱者の心を演技によって掌握するという、この政治的儀礼の仕掛けによって、この国の不平等な政治システムは支えられ、機能してきたという面があるのである。


そうしたマッチポンプ式の政治手法を体得している、根っからの自民党(日本的保守)政治家である小泉氏が語る「脱原発」に安易に乗っかることは、まさしく原発や基地を生み出し存続させてきた自民党的・日本的な「犠牲のシステム」(高橋哲哉)に、私たちがはっきりと加担することを意味するのではないか、というのが、僕の抱く危惧である。
小泉氏の「脱原発」発言は、あの「感動した!」と同程度の、ポピュリストとしての嗅覚にもとづいた巧まざる虚言のようなものにしか、僕には思えないのだ。
何より、原発政策を推進してきた自民党政権の中でも、とりわけ圧倒的な権勢を誇った長期政権の首相として、現在の悲惨な状況に大きな責任を負う立場でありながら、マスコミなど世間での扱いを見ると、何か清廉潔白な正義の人のようなイメージばかりが強調されているのを見ると、小泉氏当人以上に大衆の多くが、有権者としての自分たちの過去と現在と未来の責任から目を背けるために、そうした虚妄の肖像を欲しているのではないか、と思えてしまう。
言うまでもなく、これは独裁的な政治が出現し支持される条件の一つだろう。
もちろん独裁的政治は、すでに安倍氏によって現実のものになりつつあるが、国民を欺瞞によって統合する小泉氏のポピュリスト的技量は、ここまで述べてきたようにそれを上回るものがあると考えられるのである。


原発事故の悲惨を招いた、有権者としてのわれわれの責任は、小泉氏のような大権力者の責任を厳しく告発することを通じてしか、果たされないものではないか。
また小泉政権は、原発のみならず、格差拡大・貧困化や、極右的な状況など、日本の現在の困難な社会状況に関して、最大級の責任を負うべき政治家であると、僕は考える。端的な話、イラク戦争への加担の責任は、どうなったのだ。
いま「脱原発」という目先の目標を理由にして、大権力者の過去の責任を不問にするという、有権者としての自己欺瞞に身を委ねることが、果たして許されるであろうか。


小泉氏が言う「脱原発」に、どれほどの実現可能性があるのか、僕には分からない。
彼の言うことだから、それは実現の方向に向かったとしても、結局は有名無実な結果に終わることになるだろうという予感はある。
ただ、小泉氏が最も重視する日米同盟の安定性ということを考えたときには、小泉氏が言う意味での「脱原発」の道を日本が選択することは、決して現実性のないシナリオではないだろう、とは思う。日本が「核」から手を引くことは、アメリカの国益にとって悪いことではあるまい。むしろそれは、日米同盟を通したアメリカの権益確保を、より安定的なものにする可能性が高い。
ましてその道が、今やアメリカにとって都合の悪い部分の目立ちはじめた安倍氏から、小泉氏やその子息への「民主的な」政権交代という出来事と共に現実化するようなら、アメリカにとっては二重に望ましい事態であるといえるのではないか。
上述してきたような小泉氏の政治的技量を考え合わせるなら、これはアメリカとの強固な「同盟」関係に基づく、一段と強力なファシズム的統治体制の確立を意味するものだと、言うべきかもしれないのだ。
小泉氏の発言を、これまで安倍政権の路線に対する批判には消極的だった多くの日本のマスコミばかりか、ニューヨークタイムズのようなメディアまでが好意的に報じているという、このところの流れには、そのようなアメリカの思惑が影響している気がしてならないのである。
要するに、小泉「脱原発」政策は、それがアメリカによる安倍政権コントロールのための単なる揺さぶりにとどまらず、かりに現実化したとしても、日米政府による支配の論理とシステムを補強しこそすれ、それに矛盾するようなものではないはずなのである。
この意味では現実の政治力学のなかで、この小泉氏の主張は、なるほど十分に実現可能性を持っていると、僕は考える。


だが、僕たちがよく考えるべきなのは、そのようにして実現される「脱原発」なるものの内実だ。
それは、日米同盟の絶対的な支配の継続を条件とするものである。弱者に「犠牲」を強いることによって維持される、いわば「犠牲」と「儀礼」による統治のシステムの護持が、この「脱原発」の真の目的なのだ。
それは、福島原発の事故処理や廃炉作業のための労働を含む、すべての人々の被曝を、永久的に容認することとセットでしか成り立たない政策だろう。
すべての被曝者の存在という、かつてなかったほどに巨大な犠牲の上に成り立つ、それは「脱原発」なのだ。
僕が問いたいのは、このような政策を、それがたとえ「原発即時ゼロ」というような当面の要求を満たすものだったとしても、真の意味の「脱原発」だと捉え、それを支持するようなことが許されるのか、ということである。


僕たちが今するべきことは、小泉氏や歴代の自民党政権が主導し、僕たちも有権者としてそれに加担してきた、この「犠牲」の政治システムから、わが身を切り離すということだ。排除と抑圧によって「弱者」を作り出し、その弱者の存在を利用して延命を図るようなシステムの外側に、僕たち一人一人が立つ、ということである。
そのためには、このシステムの、直近における最大の責任者ともいうべき、小泉氏の政治的責任から、決して目を背けてはならない。小泉政治こそ、被災者、被曝者が苦しめられる、この現状を生み出した、当のものなのだ。
それは、自民党政治を容認し、小泉以後の政治をも容認してきた、僕たち自身に対する告発でもある。
僕たちは、小泉氏の名の元に行われる「脱原発」という儀礼、欺瞞的な国民統合のための儀礼には、参加すべきではない。
その不参加によって、たとえ「脱原発」という目的からどんなに遠く離れると思えたとしても、これ以上「犠牲」のシステムの存続に手を貸すことは、僕たちには許されないはずである。