ネコと洪水

多摩川の増水で流された野宿者と思われる人たちのことを先日書いたが、土曜日の「日刊スポーツ」に関連した記事が載っていて、興味深かった。


これは、河川敷か中洲かに小屋を作って住んでいた55歳の人に取材したもの。この人は、ネコと一緒に小屋に住んでたらしい。
外出していて夕方6時ごろに小屋に戻ってみると、ネコが不安そうに鳴いていて鳴きやまぬので、どうもおかしいと思っていたらしい。
やがて増水してきたのだが、ネコが小屋からどうしても離れようとしないため、この人も小屋を離れられず危うく逃げ遅れそうになった。すんでのところで、ネコを小屋のなかの高い場所に移して、なんとか橋の上に自分は避難した。
何時間かして水が引き、戻ってみると、小屋は流されて10メートルぐらい下流の木に引っ掛かっていたそうである。小屋のドアを開けるとネコが中から飛び出してきて、この人は『「助かってよかった」と、胸をなでおろした』と記事には書いてあったけど、「助かってよかった」というのは自分ではなくネコのことだろうな、きっと。
まあ、そういう記事だった。


この記事を読む限りでは、退避勧告みたいなものはなかったように思えるが、実際の事情は分からない。
ところで、この人の場合、逃げ遅れそうになった理由は、ネコを助けようとしたことが大きかったわけである。
生田武志『ルポ 最底辺』にも出てくるが、野宿している人にはネコや犬など、動物を飼ってる人が結構おられるそうである。

公園のテントで猫を15匹飼う人の話をしたが、犬や猫を飼っている野宿者にはよく会う。自分が食べるだけで大変なのに動物を飼えるのかなあと思ってしまうが、犬や猫がいると家族がいるみたいで心強くなるようだ。よく、リヤカーの上に犬を乗せて一生懸命押している人を見かける。(p110)


非常に強い孤独のなかで、身近に生きものの存在があることが、特別な重みをもっているんじゃないかと想像する。きっと、たんに(家畜やペットの主としての)人間と動物、という関係性とは違う、「命」にふかく関わるようなレベルの個と個の関係がそこにあるんじゃないかと思う。
だがこれは、じつは野宿の人たちに限ったことでもないだろう。
たとえば都会での一人暮らしの人などで、飼っている動物と一緒に住めることが、住居など人生の選択のとても高いプライオリティになっている人は少なくない。
現在の社会では、人と(身近な)生きものとの関係性が、大きく変わりつつあり、そのもっとも鋭い事例が、野宿者の人たちのケースには見られる、ということではないだろうか?
それは、「命」がある意味でさらけ出されつつある時代、ということかもしれない。
その時代のなかで、野宿の人たちの存在は、決して社会全体のなかで「特殊」でも「特異」なものでもない、ということだろう。


「ホームレスのくせに動物を飼うなんて贅沢だ」というふうな物言いは、こうした事情がまるで理解できない人たちがするものであろう。
なにがその人にとって、生きることに不可欠なニーズなのか、外からは簡単には見定めがたい場合がある。まして出来合いの、通り一遍の基準では。


今回の事態によって、各地で河川敷などで生活している人たちを退去させようとする動きが、「生命の安全」を理由として起きるのではないかと思う。
実際、その危険さは明らかとなったわけだから、それが本当の理由なのか、立ち退かせるための口実なのかの判断はつきにくいとしても、この動きに反論することは難しいかもしれない。
だが、考慮されるべきなのは、この「ネコ」をめぐる事例が示しているように、施設などに入らず(アパートも難しいだろう)、こうした生活のあり方を選ぶことをこの人たちに強いた、強い「孤独」というもの、そして人が生き物として生きていくための最小限のコミュニティの必要性、といったことであろう。


そうしたことが考慮される社会になることで、恩恵を受けるのは、もちろんわれわれ自身でもあるはずだ。