人の命と公園について

各地で台風による大きな被害が出ているようで、お見舞い申しあげます。
大阪ですが、先日のエントリーで紹介した長居公園の「大輪まつり」、月曜日も行われることになってます。
手前味噌ですが、ここのブースのひとつで、ぼくが先日行ってきた北海道猿払での遺骨発掘のワークショップに関することも展示されてるはずです。こちらに関心のある方も、ぜひ行ってみてください。
ところで、そのエントリーのなかで、野宿者の人たちのテントの強制排除が長居でも行われるかもしれない、ということを書きました。
ぼくは門外漢ですが、それについて少しだけ思うことを書いておきます。


ぼくには、公園に野宿者の人たちのテントがずっと存在し続けるという状況が、その人たち自身にとって、またぼくたちひとりひとりにとっても、望ましいものなのかどうか分かりません。
まず、住むところを失って否応なく野宿せざるをえない人たちが続出してしまう、いまの社会の状態というものがあり、これは改善されなくてはいけないとおもいます。
そのうえで、その人たちが生活する環境として、公園にテントを張って暮らし続けるということが、本人にとって本当に幸せであるか、なんともいえない。
もしかすると、それがいいという人がいるかもしれない(その言葉の意味には、いろんなことが考えられる)し、やはり家屋や部屋がもてるのならそれがいいという人が多いのかもしれない。いずれにせよ、その心のうちは本人でないと分からないと思う。


それと別に、ひとつのライフスタイルみたいなものとして、そういうことも認められる社会になっていくべきじゃないかという意見もある。それも分からないではない。
ただ、そのことと公園という公共の、という言葉も好きでないけど、みんなが散歩したり遊んだりする空間との兼ね合いということは、考えないといけないだろう。
公園を管理してるのは市役所とか、今だと住民の自治組合だったりするけど、ほんとうは住んでる人、また行き過ぎる人、もちろんそこに緊急避難的に野宿せざるを得ない人も含めて、生きている人みんなのための空間だ。
だからそこで、人が生きるということ、命を基盤にして、人が共同で暮らしていくということの全体のバランスのなかで、公園という空間のあり方は考えられるべきで、それを最終的に決めていくのは、行政ではなくて(また政治や「運動」でもなく)、そこに関わるみんなの意見であるべきだと思います。


いまの状態をみると、野宿せざるをえない人が生み出され続けてるという社会の現状のなかで、テントを奪われて公園から追い出されるということは、路上での孤独な死に結びついていく可能性が、たいへん高いと考えるしかない。
大阪市が、野宿者がテントから出るための代替物して提示してきた「シェルター」や「自立支援センター」といった施設が、多くの問題点を抱えた不十分なものらしい、ということはここでも何度も書いてきました。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060118/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060124/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060219/p1


こういう不十分な対策しかなく、生活保護の受給もどんどん難しくされていて、仕事につくことも住む部屋を探すことも絶望的なぐらい困難な状態のなかで、いま辛うじて雨露をしのいで生活していて、仲間との結びつきや、空き缶集めなどによる生計・生活の基盤もどうにかある場所を追い出されてしまうことは、実際には路上に出て行って死ねと言っているのにも等しい。
東京などでは、別の対策が講じられているようで、それにも問題はあるんだろうけど、ともかくぼくの住む大阪では、野宿者が置かれている現状は、こういうものです。


人が生きていることの価値を、行政が、またぼくたち一人一人が、どれだけ大事にしていくかということが、ここで問われてるんだと思う。
一般的な心理として、公園にテントを張って暮らし続けることは、緊急避難として以外は、認めにくいものだろう。また、野宿者の側からみても、高温化がすすむなかで、都市部での野外の生活は、ますます過酷なものになってきているはずだ。
だがそれでも、そこで生活せざるをえない、そうしなければ死に限りなく近づいてしまう人々が居るということが、この社会の現実なのだ。
結局、公園の野宿者の問題は、自由な生活のスタイルの問題というよりも、第一義的には、人が孤独に路上などで死んでいかないようにするには、どうするかという問題だ。
でも、人の命ということ、人が生きていくことの大事さというものを、政治や行政や、ぼくたち自身が、もっと自覚するようになれば、そこで構想される社会や生活のあり方というものも、きっと変わってくるはずだ。


公園から、行政が強制的に野宿者を追い出し続けるという態度は、人が生きることや命の大切さという、この一番基本のところを無視・軽視したところから出てきている。
その冷たい眼差しが向けられる対象は、もちろん野宿者の人たちだけではない。
こうした態度を黙認しないことは、ぼくたち自身に関わることでもあるんだと思います。