河川敷で濁流に流される人たち

台風のため増水した多摩川の河川敷や中洲に取り残された「ホームレス」の人たちが、濁流のなかに取り残されたり、流されたり、救助隊員に救出されている様子。
きょうは一日中、テレビでその映像が流れていた。
多くの人は、あの画面をどう見ただろう?


台風が近づいてると分かってるのに、事前に避難は出来なかったのか?もともと住んでいいような土地なのか?救助活動には多額の費用がかかるけど、それは誰が支払うのか(税金が使われるのか)?助ける救助隊員も命がけであり、二次災害が起こる危険もあるのに、避難しないことは自分勝手すぎるんじゃないか?
そういう批判的な意見があるかもしれない。
人の命がかかってるのに、「費用」の問題を言うのはどうかと思うが、行政の本音としては、そういうこともあるだろう。実際問題、このところの世相をみれば、あるとしか思えない。
それよりも、救出活動にあたる人たちの危険、いやそれ以前に本人たち自身の命を、もっと大事にするべきだろうという思いがある。
だから、この人たちが事前に避難しなかったことへの批判や検討は、周囲からの呼びかけがどの程度なされたかという検討とあわせて、ある部分まとを得ているかもしれない。
しかし、だ。


災害によって人が生きるか死ぬかということになったとき、見捨てるようなことはしないという建前を、まだこの国はもっているのである。
それが「建前」に過ぎないとしても、建前さえ存在しなくなってる国は、他にいくらでもあるだろう。
しかしこの建前が、そろそろ崩れ始める気配はある。
あれらの映像を流すニュースの報道を見ていて、ぼくはそう感じた。
あそこで報じられているのは「流されるホームレス」の姿であって、名前や住居をもった社会的に認知された「生きている人間」の姿ではないように感じられたからである。


たしかに言えることは、あの河川敷の人たちが避難しなかったことをめぐる議論は、もともと増水すれば流されてしまうような土地に、この人たちが住まざるをえなかったという事実、そういう選択をさせるような社会にこの人たちが生きてきたという事実と切り離して行われてはならない、ということだ。
この人たちは、洪水(増水)が起きる前から、もともと「救助」を必要とする立場にいた。「災害」は、とうから起こっているのだ。
もし、この人たちの態度や行動が批判されるなら、それは基本的にはただ一点、「自分の命をなぜもっと大事にしないのか」という観点からされるのでなくてはならない。
だがそのことも、ほんとに真剣に考えようとする人なら、容易に口に出来る批判でないこともたしかだ。


もともと、この人たちがどれだけ危険が身に迫っていることを知りうる条件にいたのかは分からない。河川を管理する当局などからの警告もあったのだろうと思うが、それが届かない人もあったのか、その辺の事情は分からない。
だが、なんといっても印象深いことは、なかには救出されることを拒む人たちもあったらしい、ということである。
これは、どういう思いがその背景にあったのか、もちろん分かるはずもない。
野宿者の夜回りの活動をしている人から聞いたことだが、路傍で倒れている人に遭遇して、そのままだと命も危なそうなので救急車を呼ぼうとしても、呼ばずにこのままにしておいてくれと言って受けつけない人が時折いるという。
今回の場合も、そういうことなのか?
それなら、それはどういう意思か?行政や国の世話になり、「公」や他人に迷惑をかけたくないというようなことか?それとも、行政への不信、警戒感があまりに強いのか?
だがことは、その人の命の瀬戸際である。それを拒絶するというのは、これは根本的な「拒絶」ではないだろうか。
このまま濁流に流されるままに、死んでしまったほうがよい、というようなことなのか?いや、100%死ぬことが確実であっても、それは「死への意志」ではなく、最後まであくまで自分の身と責任と自由さを手放しはしないという意思表示なのか?
そこは、ほんとうに分からないし、ひとりひとり、言葉にもできない複雑な思いがあるはずだ。


われわれが考えることができるのは、ここに「命を救われることへの拒絶」という形でしか自己の意思を表明できないような地点へ追い込まれた人たちが、確かに存在するという事実についてであり、このわれわれが構成する社会は、現実にそういう人たちを生み出し続けているのだという現実についてだろう。
濁流に流される人たちを救うのかどうか、その決断を迫られているのは、ぼくたち一人一人なのだ。