「有事を作りだす国」にしないために

震災が起きた翌日の土曜日、京都で行われた朝鮮学校への高校無償化の即時適用を求める集会に行ってきた。


こんな大災害のさなかだけに、開催するのかどうか分からなかったが、当日主催者に電話してみると、予定通り行うとのことだった。
集会が行われる三条大橋に着くと、数十人の人が集まっていた。だがスピーチを聞くと、状況を考えて、デモは中止とし、小規模な集会のみを行うとのこと。
何人かが発言やメッセージの紹介を行い、短時間で解散となった。


正直、ぼくも行くことを躊躇していた。
だから、話し合いの末、このような決定をした主催の人たちの気持ちは、よく分かる。
ただ、自分自身も含め、「こういう非常時に、抗議やデモなどは自粛すべきだ」という風潮が、この社会を現実に覆い始めていると思えることが、災害とは別の意味で恐ろしく、また心苦しい。
不当な差別や暴力による被害を受けた人が、救済され権利を回復するような社会を作ろうとすることは、人が生き延びていく社会を作るための重要な営みだ。
被害や不公平さに苦しむ人たちが声をあげられず、社会全体からのしわ寄せを、さまざまな形で身に受けているこの社会の実態がどんなものかを、今の被災の状況は生々しく教えてくれているとも言える。
差別への告発や権利要求、また暴力や抑圧への抗議の行動は、そういう不当な被害(被災)者を出さないような社会を作るための行為でもある。
これは、震災の被害者を思い、その救済を願う心情と、相反するものであるはずがない。


そして何より、抗議している当事者は、差別と暴力に満ちたこの日本の社会の中で、生き延びるためにこそ声をあげているのだ。
その、生き延びるための声を「この非常時に」と言って抑圧する態度(性暴力被害についての言説や原発をめぐる議論にも見られる)は、震災の被害者や救助に当たっている人の無事を願う心情とは、まるで相反するものだろう。
だから、このような「抗議」へのバッシングは、ただ「被害者」や「非常時」を方便として持ち出し利用しているだけで、実際には自分たちの特権や差別心に居直りたいだけの、欺瞞的な心理であり言動であると断言できる。



じっさい、ツイッターなどでは、地震の発生直後から、朝鮮人についての悪質なデマが流通したのは、あいも変わらぬ、この国の差別的な体質を示しているだろう。
だがそれ以上に醜悪だと思うのは、被害の甚大さを口実として、「日本人としての誇り」を殊更に強調するようなナルシズム的な発言が、ネット上に溢れていることだ。
被害を受けたり、救助や支援に当たっているのは、また被害に思いをはせているのは、決して「日本人」ばかりではない。
そのことに思いが致せない鈍感さ、傲慢さが、巨大な被災者を生み出すような社会を作るのだ。


実際、京都での集会においても、デモが中止になったのは、在日の人たちの意見によることだったようである。
あくまで想像だが、その人たちはバッシングや反感を買うことを恐れたわけではなく(デモが行われた場合、そうした心ない日本人が多かっただろうことは、認めざるをえないが)、被害を受けた人たちやその家族や身近な人たちのことを配慮したのだろう、と思う。
普段、国や行政による保護を十分受けられず、日常を社会の辺境に近い場所で生きている人たち(マイノリティ、僻地の人、野宿者など)ほど、他人が「非常」の場に追い込まれ(被災した)たことへの、心配や共感は鋭いものだと思う。
自分たちは、この日常のなかで彼(彼女)らへの差別を重ねておきながら、そうした人たちの繊細な配慮や心情を理解せず、そればかりかさらに抑圧を強めて、自分たちの権益を確保しようとする、日本社会の悪い体質(被災を構造的に生み出す体質)を、私は心から憎む。


不当な差別や暴力に抗議する、少数者や被害者の声を、「非常時」だとか「有事」だとかいうことを持ち出すことによって押さえ込もうとする圧力は、今起きている差別や不公平による人災を、いつまでも引き起こし続け、さらに甚大なものにしてしまうものである。
いや、そういう世の中のあり方を変えたくないからこそ、彼らは「声」を封じ込めようとするのだ。


これほどの大災害だというのに、会見で「国民のための」とか「この国難に一丸となって」といった、空虚な排他的国民主義の文句を唱えるばかりの総理には、憤りと絶望を覚えるばかりだ。
だがもっとも怖いことは、政治家の発言や、マスコミの論調などとあいまって、社会の全体に、「有事」や「非常時」を口実とした、あらたな強い国民統合の論理が支配的となっていくことだ。
少数者の抗議の声への抑圧、バッシングは、それに深く関わっている。
あえて書くが、多くの人々の被害を「犠牲」とか「礎」(菅総理は、この言葉を昨夜使った)と呼ぶことによって、悪しき統合のための道具に利用するのは、国家権力の常套手段だ。
差別的な国家との同一化を手放したくない、言い換えれば、本当に醜悪でない人間的な社会をこの国に作り出すことを放棄した、浅薄な人たちのナルシズムと欺瞞が、それを後押しする。


こうして生み出される「有事を作りだす国」が、やがてはどれだけ多くの人的被害を、国内と周辺地域にもたらすことになるか、日本の近現代史を学んだぼくたちは知っているはずだ。
いま、緊急の救助・支援活動と共に、真剣に考え立ち向かうことが求められるのは、この長期的な「より巨大な有事(被害)」の阻止、ということでもある。