『北朝鮮へのエクソダス』・その2

前回の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070815/p1


北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる

北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる



戦後日本の体制と「帰国事業」

帰国の物語を追いながら、わたしはともすればひとつの説明を、あの責任を負わせるべきたったひとりの犯人を探しがちだった。しかし、北朝鮮への帰国は、究極的には冷戦の分断線をまたぐ暗黙のパートナーシップによる創作だった。すべてのパートナーが同程度にそこには関与していたわけではないし、結果についてもすべてのパートナーが同じ責任を負っているわけでもない。それでも、こうしたパートナーの静かなる協力がなかったら、一九五九年十二月以降の出来事は起こらなかっただろう。(p255)


以下では、本書の内容を部分的に紹介しながら、気が付いたことをいくつか書いておきたい。
まず、この本の主題になっている在日朝鮮人の「帰国事業」「帰国運動」について、確認しておくべき基本的なことは、本書中に詳しく実例が書かれているように、この出来事によって多くの人々に悲惨や不幸がもたらされたということである。それは、本書中に登場する何人かの「脱北」した元「帰国者」が語る朝鮮での体験を指すばかりではなく、このことによって(日本の植民地支配や朝鮮戦争がもたらしたのと同様の)多くの家族や人々の間に「離散」の状況が生じてしまったという事実をも指す。
だから、こうした悲劇が繰り返されないためにも、その実態を解明する試みは重要な意味をもつのだ。
ところでぼく自身は、以前から、それを積極的におしすすめたのはあくまで朝鮮民主主義人民共和国の政府や朝鮮総連の側であり、その主たる政治的理由は、朝鮮戦争によって大きく減少した朝鮮の労働力を移住により補填することだったのだろうと、漠然と考えていた。
だが考えてみると、冷戦下、国交のない両国の間で、これだけ大規模な人の移動が公式に行われるということは、片方の側の意思や熱意だけでは到底無理なことであろう。実際、当時の岸政権は、この帰国事業に全面的な後押し・協力を行った。


本書では、1959年から84年までの間に9万3千人以上の人たちを「帰国」させたこの大規模な「事業」が、実際には上記のような複数の勢力(日朝両国政府、両国の赤十字、国際赤十字委員会、朝鮮総連アメリカ政府、ソ連政府など)の「協力」と、それぞれの思惑や戦略の絡み合いの産物であるということが書かれている。
そしてまた、この「事業」はそもそも日本政府や日本赤十字の強い意思と働きかけに発するものであり、朝鮮側は、政府にしても、もともとある時点(帰国事業開始の直前)までは、こうした「大量帰国」に関しては乗り気でなかった、もしくは想定していなかった、という重要な事実が豊富な資料を駆使して示される。


では、なぜ日本側は、こうした「大量帰国」を望み、国際赤十字委員会や朝鮮の政府に、それが実現するよう強く働きかけたのかが、第一の疑問となるだろう。
そしてもうひとつ、「ある時点」(1958年ごろだが)になって、突然朝鮮政府が「大量帰国」に積極的になったのはなぜか、という疑問も生じる。


前者の問いについては、治安上の理由(これには、当然冷戦という状況が大きく関係する)、及び社会福祉面での予算を削減するという経済(財政)上の理由という、二つの理由から、日本政府や日本の保守的な勢力が在日朝鮮人の日本からの「排除」を強く望んでいたことが書かれている。
日本赤十字は、そうした日本政府の願望の実現のために、国際政治の場で小さからぬ役割を演じた、というのが本書の見解である。
本書ではとくに、「経済上の理由」に関する記述が目を引く。
当時の日本政府や保守派にとっては、在日朝鮮人の存在が、日本の社会福祉に関わる財政を圧迫するものと見なされており、この人たちを新たに構築されつつあった国民的な福祉制度の外に「排除」することと、この「帰国事業」の促進とが、ひとつの大きな目的によって結ばれた動きであったとの視点がはっきり示されている。
たとえば、1952年の日本国籍喪失にともない、在日朝鮮人は主要な日本の社会福祉を受ける権利を失うが、それでもこの人たちへの生活保護に関わる支出は、大きな社会問題となっていた。当時、厚生省が警察やメディアと協力してすすめていた朝鮮人の「生活保護の過度な申請」を削減するためとする大規模で強引な捜索とキャンペーンに関して、こう書かれている。

厚生省が、自らの作戦と、並行して進められている政府と日本赤十字社による帰還計画推進の努力との関連性をじゅうぶん認識していたことは疑いを容れない。(p150)


このような、社会福祉に要する予算の削減(それと同時に、「労働市場への圧迫」も在日朝鮮人排除の理由として、日本の政治家によってあげられていた)のような「経済上の理由」の重視は、日本政府による「帰国事業」の推進を戦後日本の「国民国家福祉国家」の形成の過程の一環をなすものととらえる著者の視点を示している。
この視点は、この事業に暗黙の容認という態度で臨んだアメリカとの関係にふれた次の一文を読めば、よりはっきり分かるだろう。

帰国事業は、日本に新しい軍事的な枠組みができ、福祉制度の枠組みもできた、六〇年代初めを象徴する中心的な出来事だった。それは改定安保条約とセットになっていたのである。
 日米安全保障条約改定があったからこそ、アメリカ合衆国は帰国事業に反対しなかったといえるだろう。
 安保改定をおこなった岸内閣は国民年金制度もつくったが、そこからは外国人は排除された。そして、日本はそのときから高度成長期へと突入していく。そのときまで存在していた植民地の"亡霊"は安保改定によって一掃され、"単一民族国家"としての新たな福祉制度もつくられた。都市部の在日朝鮮人コミュニティの人口が減り、都市再開発がなされていくのもこの時期だった。(p268〜269)


つまり、アメリカとの同盟関係のなかで国民中心の福祉国家の体制を確立するという仕方で、「植民地支配」という過去の「亡霊」を都合よく一掃しようとする日本の政治的な意図が、強引かつ巧妙な「排除」の手段としての「帰国事業」推進の背景にあった、ということである。

労働力獲得の手段としての帰国政策(朝鮮側)

ところで、上の二つ目の疑問、つまり朝鮮政府の突然の方針転換の理由はなにか。
本書によれば、それはやはりひとつには、労働力の補填、という思惑があった。それが帰国事業開始直前の58年の時点で切迫した要請となったのは、この年に、それまで朝鮮の復興を支えてきた中国からの志願兵(停戦成立後も朝鮮に残っていた)の撤収があったためだとされる。この撤収の理由は、中国自身が、「大躍進政策」のため、大量の労働力を必要とすることになったからである。
そして、「労働力」の面ばかりでなく、国際的な場で「人道的に優れた国家」であるとのイメージを得たいという意図や、日韓・日米関係にクサビを打ち込もうという意図が金日成政権にあったはずだ、とも著者は指摘する。

北朝鮮が大量帰国に本気でコミットしたのは、結局は、国としての利己心の計算ずくだった。(p257)


こうした国際政治のあり方を見つめる著者の視点は、どこまでも冷徹である。本書では、この両国政府だけでなく、国際赤十字朝鮮総連アメリカやソ連の政府といった、「帰国事業」に関与した組織や機構の、利己的な実像と限界が、精密に暴き出されていく。


(続く)