『北朝鮮へのエクソダス』・その1

北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる

北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる

スタイルについて

なんとも独特な読後感を残す本である。
それは、在日朝鮮人朝鮮民主主義人民共和国への「帰国事業」「帰国運動」の背景を探るという、学術的な歴史研究書でありながら、著者自身のこの出来事への、またそこに巻き込まれていった一人一人の人生に対する思い入れや想像、共感、戸惑い、迷いといったものが、あまりにも濃厚に語られているという印象をもつからだ。
まるで、ひとつの内面的な旅の叙述のように、この本は書かれている。


読む者は、そこに、探求の物語という意味での「虚構性」を強く感じもするし、著者の生身の身体を感じることもある(ことに、平壌への旅の場面など)。
これは、「客観性」や「事実の重さ」(虚構の否定)の重視という学術書、とくに歴史研究書の、普通のあり方からは、大きく外れているものにさえ思える。
こうした独特なスタイルについて、「あとがき」のなかで、著者自身は次のように書いている。

世間一般に"学術論文"と称される文章を書くことの多い研究者のひとりとして、自著のなかでこれほど自らの体験を語ったことはなかった。こんな書き方にひどく居心地の悪い思いもした。
 当事者ではないことは強く自覚している。それなのに他人の記憶という繊細な風景に土足で踏みこんでいるような後ろめたさを覚えることもしばしばだった。
 けれど結局そのまま書きつづけた。ほかの当事者ではない人たち――帰国運動などまったく知らない若い日本人、帰国のことなど耳にしたこともないアメリカ人やヨーロッパ人など――が、歴史上のこの複雑な瞬間について、それが今日どのような意味をもつのかを理解する一助となるには、これが最良のスタイルだろうと思ったからだ。(p339〜340)


このスタイルで書いたことは、たしかに冒険だろうが、著者は自分自身の感覚をとおして、いわばこの問題へのアプローチ、研究の過程において揺れ動く自分の身体なり情動なりをそのまま書き記すという方法をとることで、その自分の身体なり感情なりを架け橋として、同時代の読者たちに、この歴史上の出来事を自らにつながる具体的な体験として感じ取ってもらおうとした、ということだろう。
また、この歴史的な出来事の体験者たちの記憶に対する、著者の「想像」も、あえてその主観性のままに、多数の小さな「物語」のように描かれることになる。
このことは、冒頭の部分で述べられていた、次のようなことにある程度関わっているだろう。

こうした無数の人たちの物語は大事だ。この人たちが――植民地支配とそこからの解放、冷戦、といった重大な出来事に人生をからめとられた人たちのひとりひとりが、とても大事だからだ。しかし、日本でも長い間なおざりにされ、外の世界ではまったくといっていいほど知られていないこの物語は、こうしたひとりひとりの人間の運命を超えた規模をもつ物語である。
 それは策略と欺瞞と裏切りの物語であり、その複雑にからみあった網の目は日本と北朝鮮の政府、クレムリンホワイトハウス、さらには世界でもっとも崇められている人道主義組織のひとつである国際赤十字の運動にまで広がっている。(p25)

同時にこの本は、いまだ解決されない歴史問題のひとつを考察する試みでもある。
 すなわち、個人の人生についてのささやかな物語と、世界政治の壮大な物語とが交錯したとき、いったいどういうことがおこるのか?わたしたちは、個人として、自らの人生の道筋をどこまで自由に選べるのか?制御できないどころか、目にとらえることさえできないほど大きな歴史の力に、いったいどこまで翻弄されているのだろうか?(p28)


つまりここでは、個々の人たちのミクロな物語と、国際政治のマクロな物語との交錯をとらえることが主題のひとつとして掲げられているのだが、本書ではそればかりでなく、この研究対象に没入し、膨大な資料にあたり、多くの体験者の話を聞き、また平壌済州島ジュネーブ、新潟、大村など、各地への旅を続けるなかで揺れ動く、研究者である著者自身の心の軌跡が、印象深く語られており、それがこの本の大きな特色となっているのである。
読む者は、こうして文章に書かれた具体的な(研究者である語り手の)一個の身体や感情の動きを通して、現在の自分の生と歴史上の出来事や他人の人生とを結びつけることへと導かれるという体験をする、少なくともその可能性が示される、ということになる。
こうした本書の独特なスタイルは、歴史研究に関わる出版物のあり方について、少なからぬ提起をしていると思える。


(続く)