『物語消費論改』

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/14547.html

http://jp.wsj.com/article/JJ12654974330373834182517348444972986615170.html

http://japanese.joins.com/article/789/170789.html


こうした政治家たちの行動や言動を見ていると、これは外交問題に限らないのだが、彼ら自身の政治上の目的があからさまになったということだけでなく、それを支持する有権者たちがファシズム階級差別や侵略・植民地支配の時代の再来を熱望していて、政治家たちはそれに半ばひきずられるように、あからさまなファッショ化の身振りを嵩じさせることを止められずに居るという印象を受ける。
政治家たちに本気でファシズムや戦争の時代を引き受ける覚悟があるかどうかには関係なく、こうした身振りは最悪の現実を到来させてしまうだろうし、そのツケを払うことになるのは、無論彼らではない。
いま安倍政権の政治を支持したり容認したりしているわれわれの心の底にあるのは、原発事故やグローバル化に伴う社会の荒廃が突きつけてくる現実の悲惨を、今までどうり「見ないことにして」済ませられるための方途が、もはやファシズムの熱狂以外にはないという自覚だ。アベノミクスの幻想に、本当は誰も期待していない。望んでいるのは、現実から目を逸らし夢を見続けることを可能にしてくれる虚構の政治、つまりファシズムだけである。


大塚英志の近著『物語消費論改』は、80年代に著者が提示した「物語消費論」の枠組みを、「web以降」の文脈にあわせて整理することで、ファシズムに殺到していこうとするこの社会の現状を照射した重要な本である。


物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)


著者の現状への見方は、わりとはじめの方に集約して示されている。

「大衆」を「動員」すること、そして「大衆」を「動員」し易いものに啓蒙することはファシズムの基本的な手法である。そしてその「大衆」が意に反した動きをした時、「ポピュリズム」と呼ばれる。しかし「3・11」以降の「ポピュリズム」は少し印象が異なる。つまり、「大衆」が「大衆」を「動員」する現象にぼくには見える。・・・・独裁者不在のファシズムだ。(p015〜018)

それが従来のポピュリズムファシズムと違うのは、「民意」の物語消費論的自己増殖によって、独裁者が不在の「大衆自身による自己動員」が合理的になされる事態にこの国があるからだということは本書序に記した通りだ。「バットマン」やぼくのまんがのパブリシティと同じ原理で「民意」や「公共」があたかも形成されているような錯誤の中にこの国があることを誰も批判できないでいる。はっきり言うが、たった今、進行しているこの事態は明らかな錯誤である。この国では今、物語消費論的現象として「日本」や「愛国」という「大きな物語」が、ポストモダンをとうに通過しながらひどく凡庸な形で復興しているのである。(p088)


大きな物語」に回収されることを希求する「独裁者不在のファシズム」という捉え方によって、著者は、あからさまに「日本」や「愛国」を掲げる言説や運動(デモなど)ばかりでなく、反原発運動などに対しても否定的な眼差しを向ける。
その部分に対しては、僕の考え方と同じというわけにはいかないのだが、しかし、「反原発」にせよ「反レイシズム」にせよ、社会運動のかなりの部分が「動員」の思想を脱することが出来ず(それは、僕ら自身の力不足というしかないのだが)、「日本」とか「復興」という空虚な物語に回収され、その結果として改憲が行なわれつつあるという現実は、確かにいま眼の前にあるわけであるわけだから、その限りでは、著者のこの大枠の捉え方に、僕は異論をはさめない。


しかし、このような「錯誤」に満ちた「現状」が生じてしまっている原因は何か。
著者の見解がよく示されているのは、連続幼女殺害事件の被告、宮崎勤に関する、次のような感想である。

結局、宮崎勤という人間を十年間観察してわかったことは、一見、ポストモダン的に見える「私」をめぐる「リスト」や「誰かの語り」の中で自分を立ち上げようとするふるまいは、この国の近代が回避してきた「社会的な私」に対する回避の手段にすぎない、ということだ。そこでは「私」を立ち上げる手間暇や責任は忌避され、しかし他人に承認されたいという欲求だけは行使される。(p096)


著者は、「ポストモダン」が言われた80年代から90年代にかけての日本の文化状況を、日本の近代に特徴的である、「社会的な私」を回避する態度の、ひとつの現われとして捉えているのである。
歴史の中に置かれ、社会の中で他者と共に在るという、自己の生の重圧(手間暇や責任)を回避したままに、ただ他人からの承認だけを得たい、そのことによって自尊と安定を得たいという、いわば退行的な願望が、実は日本の近代を特徴づけるものであり、宮崎勤に象徴される「オタク」世代や、日本の「ポストモダン」の思想家たち(その代表は東浩紀だろう)の「錯誤」的で歴史修正主義的な心理、そしてその彼らを育み彼らによって育まれた8〜90年代の文化と社会は、その一つのヴァージョンに他ならない。
著者の批判は、そのようなパースペクティブを持つものだと理解した。
本書の第三章では、太宰治の戦前の小説「女生徒」の一節が引かれ、近衛政権下で「強い力」を待望し、自分を支配してくれる「大きな物語」に吸収されることを密かに願望する若い女性の心理が語られているのだが、ファシズムを待望するこの心理のあいも変らぬ反復を、著者は80年代から現在への時代の流れのなかに見ていると言えるだろう。


ニーチェキリスト教道徳の根底に、現実の生を否定する「弱者」(システムの中での強者)たちの「無への意志」を見出して非難したわけだが、著者が日本の近代に見出しているのも、やはり現実の生の困難でもある営みを否定して「無」と一体化しようとする、むしろ母胎のような生温かさを感じさせる「無」へと回帰しようとする意志であると思う。
そのことは、宮崎勤のような人物の心理のみならず、たとえば8〜90年代にブームとなった「エコロジー」や「国際貢献」についても言えることだと、著者は言う。90年代の初めに書かれたエッセイの中では、次のように述べられている。

人々が「国際社会」ないしは「地球」というゆるやかな母性に回収されたがっていること自体、実は極めて日本的かつ近代的なふるまいであり、決して日本人の成熟を意味しないようにぼくには思える。(中略)・・・・いわば<天皇>という存在をすっとばした<天皇制>がエコロジーや「国際社会」への貢献とやらの意味するところなのである。(p270〜271)


このように、80年代以後の日本社会を覆った「ポストモダン」の風潮を、著者は「社会的な私」を回避して退行的に自我の充足(承認)だけを求めようとする、近代日本的な成熟拒否の欲望の現われとして捉え、それが結局は、「天皇」を中心とした空虚で「大きな物語」への従属、すなわち天皇ファシズムへと辿りつくものであることを、早い段階から予測していたのだ。
80年代以後の、サブカルチャーポストモダンの時代を根底で支配していたのは、この母胎的な「無」(天皇制)への回帰の、密かな願望だった。
ここでは「天皇」は、もはや歴史的な形象ではなく、「社会的な私」を回避したいという退行的な願望、つまりは日本的な「無への意志」を充足させるための装置のようになっていることがうかがえるだろう。近代日本において「天皇」がどこまでも空虚な概念である他ないのは、それを要請しているものが、生の現実(他者との困難な関わり)をどこまでも否認し回避したいという民衆の欲望であるからなのだろう。




先に述べた通り、著者は、われわれが他者(例えばアジアの人々)と共にあるという、時には困難でもありうる歴史的・社会的な現実を回避してきた仕組みを、自身が80年代に提起した「物語消費論」の概念を(「web以降」の文脈にあわせて)整理する形で説明している。
それは、現実の歴史とは構造だけが似通っている(依存している)仮想的な物語を、自ら語りながら、閉じた共同体の中だけで流通させることで、いわば現実回避的な生を可能にする仕組みだといえる。
歴史から切断されたこのような物語(サーガ)は、普遍的な構造しか持たないゆえに、「民族」や「宗教」に関わるような何らかの「大きな物語」を希求する冷戦崩壊後の世界中の人たちが、それぞれの欲する幻想を注ぎ込む器ともなりうるものであり、それゆえそれは『スターウォーズ』のようなハリウッド映画や、トールキンの『指輪物語』のようなファンタジー、あるいは日本のサブカル作品(あるいはハルキ文学)のようなものに頻繁に用いられ、世界的に流通したのだと、著者は指摘する。
だが、この仕組みが隆盛する社会において生じてくるのは、他者と共に在る現実の歴史というものの重みや実感がいつか見失われ、それ(歴史)が自分たちの願望のままに「書き換え」可能であるかのように考えてしまうような精神のあり方、つまり一言でいえば歴史修正主義的な心性なのだ。
それは、(近代以前から)繰り返されてきた「偽史」の流行に見られるように、前近代的(個を否定する)原理である「無」(天皇)への傾向性が強い日本社会においては、とりわけ歯止めのない欲求として現われる。
こうした視点から、中上健次の後期の作品や、村上春樹の作品を、『宇宙戦艦ヤマト』、『ガンダム』などのサブカルチャーと同列に論じた章は、僕にはとくに印象深かった。

・・・既に現実の歴史と中上の「世界」が切断され、「世界」の「書き換え」に中上が進んでしまったことを意味する。それは歴史修正主義カルト教団の「妄想」と既に同じ水位にある。(p129)


五族協和」の理念を掲げる右翼の大物に操られるマイノリティーの青年達を主人公にした小説『異族』あたりに始まる中上健次の後期作品も、サブカル村上春樹の作品と同じく、このように歴史修正主義的な現在(21世紀!)を準備したもの、天皇ファシズム復権への動きという現実の力に無残に屈服する作品群として捉えられるのである。
ちなみにこの中上観は、愛読者だった僕にも、大いにうなづけるものだ。


本書全体の中でも、特に強烈な印象を受けたのは、地下鉄サリン事件が発生した95年に書かれたエッセイ、「麻原彰晃はいかに歴史を語ったか――「土谷ノート」を読む」だ。
そこには今日の日本の姿が、恐ろしいほどはっきりと予見されていると思えたからである。いくつか引用してみよう。

・・・・そこに歴史に対する日本人とオウムの人々の共通の無責任さを見てとるべきなのは言うまでもない。
 そしてもう一点、「土谷ノート」を読んで改めて思うのは、オウムの人々にとって歴史とは、英雄なり陰謀機関なりの特権的な存在によってのみつくられるものだ、と考えられていることだ。(中略)オウムの人々の歴史認識の背景に選民思想が基調としてあるなら、彼らのナチズムへの傾斜も納得がいく。(p278〜279)

だが、その経験はいわば主観による経験であることに留意すべきである。他者なり社会なりとの関係性の中で生まれた体験ではなく、触媒によってもつくり出すことが可能な主観的な経験であり、オウムという共同体内部では共有されるが、他者とは共有されない質のものである。こういった主観的体験を根拠にオウムの人々はあまりに早急に自らと歴史を結びつけようとした。その時、オウムの人々が決定的に欠いているのは、自らの体験を歴史へとつないでいく具体的な手続きであり、検証方法である。(p281)

オウムの人々の歴史認識の危うさは、特権的な人間のみが歴史を動かしうるという考えを捨てきれないことだ。だが、政治家や知識人も含めて特権的な何者かが歴史を動かすわけではない、ということを戦後社会を通じて日本人は証明してきたではないか。それが戦後民主主義ではなかったのか。
 阪神淡路大震災サリン事件をきっかけに、歴史の主導権を強い個人にゆだねるべきだという声がくすぶっている。(中略)オウムが見せた欲望は、もうはっきり言葉にすべきだろう、ファシズムへの欲望である。(p282〜283)


こうした文章を読むと、現在の日本社会全体が、いわばすっかりオウム化しているという思いを禁じることができない。
他者と共に在る歴史と社会的生の困難さを忌避した結果、歴史修正主義への耽溺とナチズムへの傾斜を強め、承認を求める自我の欲求と被害妄想、異質な者、異義を唱える者、抗議する者への攻撃性ばかりを肥大させて、それを権力に思い通りに操られる未成熟な人々。
「オタク」とか「ネトウヨ」と呼ばれるような一部の人間たちばかりでなく、それはアメリカに追随することしか知らない政治家やエリート達を含めた、僕たちの社会総体の姿なのだ。
われわれ自身がオウムである、いや、宮崎勤とは僕自身だと、今や認めるしかない。


いま問われているのは、僕たち一人一人におけるこうした未成熟、「社会的な私」の回避がもたらした、ファシズムとナチズムへの接近という現在のこの状況に関して、そこで行なわれかねない巨大な暴力に対する責任をどうとるか、ということだろう。
著者の大塚がこの95年の文章で語っていたのは、「ファシズムへの欲望」に抗して、歴史を、特権的ではないわれわれ全員が作り上げていくという「戦後民主主義」に仮託されていた理念の価値だ。
この「戦後民主主義」は、それが特権的な者(「強い力」)への従属と回帰という、日本社会の通奏低音の如き「ファシズムへの欲望」に、対抗する理念である限りで価値を持つだろう。
それは、他者に対する責任において、どれほどの挫折と苦難を経験しても、自分たちの手にした歴史の形成への権利を、特権者たちに手渡さないという、あえて言えば「覚悟」を意味しているはずである。
他ならぬ日本の戦後民主主義が晒してきた、とりわけ最近では民主党への政権交代が現出させ、またマスコミによって誇張されもした惨憺たる結果によって、われわれが経験せざるを得なかったものは、自分たちの民主主義の無力さであり、その実感によって掻き立てられた、宿命的とも感じられるような内心の「無への意志」の膨張である。
それは恐らく、95年の震災とサリン事件の衝撃のなかで(あのサティアンの建物から、やはり福島原発を思い起こしてしまうのだが)予感されたものであり、さらに遡れば(中野重治や谷崎が描いたように)関東大震災以後の日本人と日本社会を襲った退行的な衝動であり、また恐らくは政治・社会情勢の激動ばかりでなく地震や洪水などの天変地異が多かった幕末や、さらには例えば平安の末法思想の流行期や、大地震津波の続発の中で戦国の大動乱への道を開いていった「享徳の乱」の勃発時に、この社会の集団的な心理を捉えたのと同質の衝動なのかも知れない。
いずれにせよ、それは現実の生を回避し否定したいという意志なのであり、他者と共に生きる現実の困難さからすっかり逃れて、「強い力」に庇護されているかのような妄想にまどろんだまま死滅の時を迎えたいという密かな願望の、しかし恐らくは大文字の他者が抱く願望の現われなのだ。
この挫折とまどろみとの犠牲者となるのは、もちろん、いま現実を共に生きている他者である。


大塚英志は、この本の終わりに、「復興」や「日本」「愛国」(さらには「反原発」)といった「大きな物語」に魅了される人々の動きを、結局は天皇ファシズムに回収されてしまうものであると捉える冒頭のような観点から、いま必要な態度として「降りること」の重要さを語っている。

「降りること」は世界に対するゲームに用意されたマップや攻略本を捨てることだ。しかしそれは現実と書物と双方の世界できっちりと「迷う」ことの選択である。(p344)


これは、大塚自身が、「大きな物語」への回帰という日本社会の集団的な願望の渦の外に立ちえた結果の態度であり、そうである以上、異論を唱えることはできない。
大塚の言う「降りること」は、「大きな物語」から自身を切断すること以外を意味しないだろうからである。
だが、個々の「私」の選択がどうあろうと、願望されたファシズムの到来は、日本に住む全ての人々の生を襲い、押し流そうとするだろう、津波のように。
その濁流に呑まれてすがりついた木片や土くれのようなところから、われわれは、二度と押し流されることのないような社会の形成を、今度こそはじめて、開始する以外にないのだと思う(それが常に「運動」のような形態をとるかどうかは別問題だ)。
内なる前近代との闘いは、否も応もなく、これから始まっていくのだろう。この私(たち)の、外においても、内においても。
日本ではまだ、甲午農民戦争のような闘争と敗北の経験が、為されたことは一度もない。