『マツタケ  不確定な時代を生きる術』

 

マツタケ――不確定な時代を生きる術

マツタケ――不確定な時代を生きる術

 

 

 

 

『人間が発生を管理することができないキノコの生命は、わたしたちが所与のものと考えていた社会が崩壊したときには、恵みであり、拠りどころともなる。(p5)』

 

 

これは、去年(2019年)翻訳・出版された本。

内容については、訳者によるこちらの対談記事が詳しい。

 

https://hagamag.com/uncategory/7160

 

 

訳題のとおり、たしかに「マツタケ」をめぐる本なのだが、非常に広範囲のことが書かれていて、要約するのが難しい。本書の中で著者は「アッセンブリッジ」という言葉を用いていて、それは「意図をもたない寄せ集め」のような意味らしいのだが、全体がそれこそ深く生い茂った森のようで、その多様で予測できない細部に分け入っていく興奮をたのしむことの出来る本である。

 

 

著者がマツタケに着目するのは、それが現代の社会が生み出した、破壊された「景観」(この言葉は、人間社会を含めた広い意味で使われている)のなかで、私たちが生き延びていくことのヒントを与えてくれるものだと思えるからだという(下の一文には、原発事故後の森のイメージもあるのではないかと思う)。

 

 

『グローバルな景観というものは、今日、この種の瓦解が蔓延している(まき散らされている)。一旦は死の宣告をうけたにもかかわらず、これらの場のなかには生命にあふれている場所もある。見捨てられた富の場から、あらたなマルチピーシーズと多文化的な生命が生みだされることがあるからだ。全球的(グローバル)に不安定に覆われている状況下にあっては、こうした廃墟における生活を模索していく以外に選択肢は残されていない。(p10)』

 

 

たとえば、今日、日本で消費されるマツタケの重要な生産地の一つになっているのは、米国のオレゴン州だが、そこでマツタケ狩りをしているのは、ラオスカンボジアから難民としてやってきた人たちである。

フィールドワークした著者は、まるでインドシナ半島の山地に居るかのように米国社会にまったく同化していない、これらの人々の姿に衝撃を受けることになる。それは、著者自身を含めて、「良き米国市民」となる(見なされる)ために、言語を含めた自分の出自の文化をなるべく表出しないように、同化の努力を重ねて生きてきた旧来のアジア系移民たちとは、まったく隔絶した光景だったからだ。

それをもたらした(可能にした)ものは何かというと、グローバル化による米国の社会保障体制の「瓦解」だったと、著者は言う。つまり、レーガン政権以降、社会保障制度が崩壊した米国では、移民たちは同化の努力を重ねても、何も良いことがないことが明らかになったのだ。

 

 

アメリカの不安定である様―瓦解に生きること―は、こうした構造化されていない複数性の、溶解しえない混乱のなかに存在している。もはや人種のるつぼではなく、わたしたちは誰だかよくわからない他者とともに生活しているのだ。アジア系アメリカ人世界でのことだけではない。この不協和音は、米国の白人にとっても有色人種にとっても、同様に感じられる不安であり、それは世界中に波及している。(p150)』

 

 

 次の引用で言う「あらたな伝統主義者」とは、難民たちよりもむしろ、トランプ支持者たちのような排外主義的な人々のことを想定しているのだろう。

 

 

『あらたな伝統主義者たちは、人種的に交わることを拒絶し、強制的同化をともなって混淆を可能とする社会保障制度なる力強い遺産も拒絶する。伝統主義者が同化を拒絶するにつれ、あらたな構造が創発した。中心となる計画がなくとも、移民と難民は、生計を立てるために、かれらにとって最善の機会にくらいついてくる。(中略)社会保障制度のあとをうけ、このように勝手なフリーダムが乱立する時代がやってきた。(p162)』

 

 

著者は、(経済の)グローバル化によるこのような「瓦解」を、否定しようのない前提としたうえで、その荒廃した「景観」のなかを生き延びていくヒントを、マツタケをめぐる事柄(人間を含めた)のなかに探っていこうとするのだ。

ちなみに、上の引用の最後に出てくる「フリーダム」というのは、著者の独特の用語の一つである。マツタケ狩りと、マツタケを売りさばく、あるいは買い取る、仲介するといった商行為とに熱中する人たちを突き動かしている、訳の分からない熱情、場の磁力のようなものを、著者は「フリーダム」と呼ぶ。この言葉には、インドシナから逃れてきた難民たちの「反共」という政治的含意も一部に含まれてはいるが、それよりもはるかに広大なものを内包している。たとえば、非合法であること、悪を働くことに対する「自由」への希求も、そこには含まれる。そうした人々の、時には暴力的で醜くもある生のあり方を表現するのに、著者は、「汚染された多様性」という、これまた魅力的な言葉を案出する。

 

 

『(前略)そのひとつの理由は、汚染された多様性が複雑であり、しばしば醜く、屈辱的であるからだ。汚染された多様性は、拝金主義、暴力、環境破壊などの歴史を生きぬいてきた人びとを包摂している。(p52)』

 

 

著者の分析から類推するに、「フリーダム」は、資本主義の一般的な原理とされている「交換」(「疎外」)の論理に収まらない、むしろその論理(つまり資本主義の運動そのもの)を可能にさせているような、根源的な生の力のようなものだと思う。たんなる交換(金儲け)のためではなく、フリーダムに憑かれているがゆえに、人びとは採集や商行為に熱中するのである。むしろそれこそが、資本主義という運動の本体でもあるのではないか、というわけだ。

 

『フリーダムと憑かれることは、おなじ経験の両面である。(中略)工業生産にとって重要な「人と物の分離」を免れるのが、マツタケ狩りなのだ。(p121)』

 

 

 このように、著者のいう「フリーダム」は、いわば資本主義の運動を、そのうわべの交換原理(「疎外」の論理)から乗っ取る、あるいは奪い返して、われわれ(人間と非人間)の生に差し戻そうとする狙いをもった概念だといえよう。

 

 

 

 

 ところで、著者が(キノコのなかでも)特にマツタケに注目するのは、「マツ-マツタケ-人間」という三つの種の奇妙な共生(寄生)関係が、まさに上記の「瓦解した景観」を生きるということに深く関わっているためだ。

 マツは、他の樹木や植物が育たないような荒れ果てた土地を好む(他の木々があると成長できないのだ)。とりわけ、人間によって破壊(伐採)された土地に、好んでマツは繁殖するという。たとえば、北米のマツは、火を必要不可欠とするものが多い。その一種であるポンデローザマツという巨大なマツの原生林が維持されてきたのは、先住民が定期的に火を放って、山火事を起こしてきたおかげである。ところが、「防火」を第一とした近代的な森林管理は、森から「火」を排除することで、この原生林を維持できなくし、植生を変えてしまったのだ。

 その他、錯綜したことがあるのだが、いずれにせよ、人間による破壊的な介入、ここでは森林の破壊(瓦解)は、マツにとっては必ずしも悪いことではないのだ。本書で、特に繰りかえし紹介されているのは、(マツタケ消費の本場でもある)日本の「里山」回復の試みである。そこには、他の樹木を伐採・除去することによって、かつてのような松林を復活させようとする試みが含まれている。人間による意図的な「攪乱」(これも重要なキーワード)が、自然に肯定的な影響を与えることがあるという著者の見解の、実証例になっているのだ。

 一方、そのマツが、岩場のような養分のない土地で育つことを可能にしているのが、菌の一種であるマツタケである。マツタケは、マツの根に寄生する菌だが、これは岩のような鉱物を溶解して、マツが摂取可能な栄養分に変えることが出来るのだ。人間が伐採や放火によって作り出した、荒廃地という「望ましい」環境と、マツタケという寄生生物のおかげで、マツはこのうえなく栄えるのである。そしてもちろん、マツの繁栄が、マツタケの増殖を可能にし、人間をも利するというわけだ。

 

 

 このような「マツタケ-マツ-人間」の共生(寄生)関係の記述によって、著者が揺るがそうとしているもののひとつは、自己完結性のイデオロギーである。

現代の社会と科学を支配する、自己完結、あるいは自己複製のイデオロギーを、著者は、「スケーラビリティ(規格不変性)」という批判的な概念によって規定するのだが、それを揺さぶる力を、このような共生(種間)関係に見ようとしているのだ。

 

 

『種間関係は進化を歴史に引きもどす。というのも、それらは偶発的な出会いに依存しているからだ。(中略)種間の出会いは、つねに出来事なのであり、この「おこること」が歴史の単位なのである。出来事は相対的に安定した状態をもたらすことはできるが、自己複製単位のようには予期することができない。出来事を構成するのは、つねに偶発性と時間である。歴史はスケーラビリティを大混乱に陥らせる。スケーラビリティを創造する唯一の手段は、変化と出会いを抑止することである。(p216)』

 

 

マツタケは、決して自己完結的ではありえず、つねに関係性、つまり、場に特定される。(p332)』

 

 

 このあたりを読んでいて思ったのは、こういうことだ。

つまり、性は、たしかに自己完結性を揺るがす(混乱させる)重要な仕掛けであり、それゆえに国家や資本はそれを「性欲」としてコード化しようともするわけだが、それでも、性が自己完結性を揺るがす唯一の可能性というわけではない、ということ。

あるいは逆に、性は必ずしも、(個、あるいは種の)自己複製という隘路に閉じ込められるものとは限らない。

しかし、この二つの事は、実は表裏なのではないか?

 

 

 

 

ところで、先に、著者が日本の「里山」運動を高く評価していることを書いたが、とはいえ、著者はそこで、かつての松林が生い茂った日本の(今は失われた)景観というものは、近代以前からの森林伐採・環境破壊の偶発的な結果だったということを強調する。ここに、「攪乱」(偶発性)を重視する著者の思想の核心がある。

雲南省でも調査を行う著者が、近代(それ以前からだろうが)日本の森林破壊も、中国の大躍進政策も、どちらも一見すると酷い破壊だったが、マツとマツタケの再生には良い効果をもたらしたのではないかと気づくところは、印象的である。

 

 

『この発言に触発され、わたしは、景観が「意図しえぬ設計」の産物となる過程について考えさせられるようになった。それは人間と非人間とを問わず、多くの主体が重なりあう世界制作の活動を指している。生態系の景観において、デザインそのものは明確である。しかし、構成員のだれひとりとして、そうした効果を見据えていたわけではない。人間も、ほかの生物とともに、意図しえぬ設計のもとに景観が作られていく過程にくわわっている。(p228~229)』

 

 

『人びとと樹木は、不可逆的な攪乱の歴史に巻きこまれている。しかし、攪乱のなかには、多くの生命を育む再生をともなうものもある。(p284)』

 

 

近代化やグローバル化、あるいは戦争や原発事故のような人間による破壊(攪乱)は、意図しえぬ結果として、多くの生命を育む場合がある。

そこで示唆されているのは、もちろん、私たちの世界に対する自己完結的な捉え方を転換することである。

 

 

著者は、欧米の森林管理が、あまりにも合理的・計画的であることを批判し、景観の多くが(攪乱を含んだ)偶然の結果としてもたらされたものであることを強調する。

そこには、ヘーゲルやカント(『啓蒙について』)にも通じる、偶然的な歴史の展開が、結果として良いものをもたらすのだという、自然史への信仰に近いものが感じられる。

だが、まさに現在の日本の里山運動がそうであるように、偶然的なものの維持(回復)には、逆に人為が加えられねばならない場合がある。つまり、「(とりわけ人間が引き起こす)攪乱」の抑止も、また自然史的要請なのだ。

著者もその特徴に触れている、広葉樹が生い茂り、放置すればマツやマツタケの(共生的な)成長をいつまでも不可能にしてしまう「日本的風土」(もちろん、社会的・政治的な意味も込めて)のなかで生きていると、そのことをひとしお痛感せずにはいられない。